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支援が必要な方なので支援を入れますと聞くたびに感じる違和感

一般的で自分の感性がおかしいのかもしれないけれど、
支援が必要な方なので、支援をしつつ生活できるようにしていきたいのですが、本人の受け入れがあまり良くなくて…
みたいな悩みを良く聞きます。

本人が必要と思っていないことを支援すると言うのはどう言うことなのだろう?
と若干の違和感を感じる。

例えば、身体的に不自由とかであれば、車椅子や介護サービスなどの支援を入れると楽になるだろうし入れた方がいいに決まってる

そう、いいに決まってる
と客観的には思うのですが、

そういう支援は要りません
と拒否を続ける人がいると言うのも事実なのでしょう。
それに対して、
「支援の必要性を理解されていない」
と片付けるのってあまりにも横暴すぎると言うか
「対象者を不自由な哀れな人なので、私が助けなきゃ暮らせない人」
みたいに下に見てるような節があるんじゃないかって思うんですよね。

拒否する理由を聞いてみれば、
「知らない人に家に来てほしくない」
とか
「自分で何かできるうちはなんとかやりたい」
とか
拒否する理由があると思うんですよ
支援を受けるというメリットが
支援を受けるというデメリット
を越えていないから拒否しているわけで
知能が低いとか、理解力が低いとかで片付けるのはあんまりですよね。

支援をすると言うのは、決して支援者の満足のために行われるべきではないと思うし
そうなると、
対象者のいない場面で支援について話し合うのはナンセンスだと思う。

形に残る支援ができると支援者の成果になるし安心材料になるのでしょうが、それはあくまで支援者の都合。

本当に「本人を支援する」と言うのであれば、
どんな暮らしがしたいのか。
困ることはないか。
他の人に求めることはあるのか。
みたいなところをしっかり確認して、本人の納得のいくような支援を構築するべきだと思う。

なかには本当に理解力とか先の見通しが苦手な人も居るとは思うのですが
先回りして困りごとを支援者が困るだろうと予測して障害物を取り除いて行ってしまうと
本人にとっては不自由のない生活になるので、それこそ「支援なんてなくても自分は生きていけるのに、なんでこの人たちは色々言ってくるんだ」
となるんじゃないかと。
それが
「支援に必要な方なのに、支援の受け入れが悪いです」
という支援者の困りごとになってしまうのではないでしょうか。

理解が難しくて困りごとが起こるのが目に見えていても、本人の行動を見守って
少々事件にはなるかもしれないが、大事件にならないように見守り、
本人が助けて欲しいと要望があった時にすぐ助けられる頼られる支援者でいること自体が
形としてはないけれど、本人にとっては立派な支援の形だと私は思います。

福祉の視点で支援について語ってみましたが、
これは育児にも通じる話だと思っています。

危ないからダメだとあれもこれも禁止をすると親は安心するでしょうが
子どもの視点から考えると
ダメと言われるからやらないだけというただそれだけの認識であり、
子どもは好奇心が旺盛ですので、
親がいない間なら、ダメって言われないからやってみよう!
とちょっと目を離すと危ないことをするので目が離せない!という育児のしんどさに繋がってるんじゃないかと思います。

例えば、高いところに登ってしまった時に、危ないから登っちゃダメだとすぐ降ろす方が安全でしょうが、
私的には
自分で降りれないことに気づいて怖さを感じたり、グラグラ揺れて落ちそうになった時に支えて助けてあげる方が、学習していいと思うんですよね。

このことから言えるのは、
自分が困ったなぁと感じた時に、

本当に困らさせられているのか
自分が勝手に困っているのか。
自分が困る状況を作ってしまっているから困らさせられているのか。

そこらへんをしっかり考えて適切に対応するのが良いかもしれない
と言うことでしょうか。

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