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言語化できるのはそれぞれの能力の差だけで、 心から生まれてくるものは同じなのかもしれない

    • ひらひら 声の中 ゆらゆら 夢の中 光が 差すほうへと 未来を 望むなら

      • 日記

        今日も生きている。葛藤や悩み、自身のありたい欲から生じるもの、その感情を抑制や分析するための思考回路を司る神経が備わっている。 人間の体は考えることができる。 自身の目に映るもの、心に湧き出たものに向き合わなければならないと思う。言葉は安易に表現するものでない。外界に接するほどに自身の信念は小さなちっぽけなものだと痛感する。 隣に座る人間が隣にいるということは必然なのだろうか。人類分の一の確率で、天から授けられ命を、女の体を巡り、ぞれぞれの点でこの世に生まれついた。天からみれ

        • 日記

          私は今生きている。生まれてきた意味は分からない。いずれ滅ぶものである。心は不可思議だ。翻弄される日々。生きている今私はどうあるべきかを考える。人間がどうあるべきかはわからない。わかろうとも思わない。けれども私は生きている今どう生きるべきかを考える。魂は意志に勝る。我超えて、幾万通りの心模様のなかを生きている。ひと時は閃光の如く散ってゆく。死に時まで閃光は甦る。世の中への憤りがなければ、音楽は尊いものでない。音が連続して聞こえるものでしかない。暗がりのなかで光を探す行為である。

        言語化できるのはそれぞれの能力の差だけで、 心から生まれてくるものは同じなのかもしれない

          心の変化を辿る。 中学のころに音楽に興味を示し、やがて高校を卒業した年の18歳の秋ごろに音楽を作り始める。音楽を作り始めた理由を考えるとするならば、生きるとは何か、今どうして生きているのだろうと、自身が今生きる意味を見出さなかったからだろうか。また教育課程を経て、社会という名の営みに関りを持ち、社会の規則や、そこで入り乱れる人情や、次々に生じる心への違和感を感じ取っていたこともきっかけであったと思う。 18歳の冬ごろからだっただろうか、生きるとは何かを考えるため、その頃の心持

          全てがつながっている。 今という瞬間に、これまでの自身のことが全て繋がっている。 自身という素材があり、仕事や、音楽、読書という調味料がある。 味つけは材料をより際立たせるものである。自身の思慮のある行動言動は、全てに繋がっている。

          全てがつながっている。 今という瞬間に、これまでの自身のことが全て繋がっている。 自身という素材があり、仕事や、音楽、読書という調味料がある。 味つけは材料をより際立たせるものである。自身の思慮のある行動言動は、全てに繋がっている。

          手のうちにある自由

          私の目の前で起こっている出来事は自身が招いたことである。そして、自身がそれを選んでいるのも明確である。言葉にならないほどかすかなものだったり、このように、言葉にできる思いであったり、自身から湧き上がるその想いによって、目の前の出来事は作られている。またそれは目の前の出来事を作る一部分であり、天から与えられた境遇、人、物、場所、自然が自身に与えるものもそれの一部分である。 私はどこにいようと、誰といようと、何をしていようと、自身の心持ちが全てであることがわかった。幸ある時に不安

          手のうちにある自由

          自身に浮かび上がるものを問いただし、今ある生きたい姿を導き出す。その狭間で垣間見える、今生きているということのかけがえのない思い。その繰り返しを人生というのかも知れない。そう思った。

          野原

          勢いが生み出した風によって、あれよあれよと彷徨う。風に身を任せているのか、または風に流されているのか、またはそれ以外のことを感じているのかは、その当人にしかわかり得ないこと。そしてどう思うのかは自由ということ。運命という命の運びは神の手のうちにあるものとこれまで考えていた。しかし神によって天の一角に身を授かったその時から、運命は自身の手の内にあるという知らぬ間に巡った思いが、これまでの自身の考えを覆す予感がする。 日々は連続の旅であり、昨日の自身は今日の自身ではない。今朝の自

          昨日は一日中家にいた。 窓越しに降り注ぐ強い日差しが、快晴で心地よい天気であることを示唆していた。 自然が好きだ、どうしてだかわからないけれど、とにかく好きであることがわかっている。昨日も普段なら気負いなく外へと散歩やらランニングやら出かけていたと思う。けれど、昨日の心持ちはやや違い、すこし気負いするような、かすかな心の抵抗を感じた。それを知っていて外へ出ることもできただろうけれど、昨日はそう思わなかった。けれど家の中から感じる外の雰囲気はとても心地よかった。心が望んでいるこ

          今ある感情が全てであり、1秒先の感情、思考を考えることは不可能である。ゆえに心は自由である。

          今ある感情が全てであり、1秒先の感情、思考を考えることは不可能である。ゆえに心は自由である。

          今目の前で起こるものをどう捉えるかは自身の自由であること、また考える末に辿り着く、皆大きな流れの中に身を置きやがて滅びるという概念を、今ここにある全てから学んだ。

          今目の前で起こるものをどう捉えるかは自身の自由であること、また考える末に辿り着く、皆大きな流れの中に身を置きやがて滅びるという概念を、今ここにある全てから学んだ。

          今日、朝目覚め、今日も生きている。どう生きようかではなく、今日命がここにあることをありがたく思うことが、この命を繋げてきたご先祖に対する敬意だと思った。 人と人が傷つけ合うこと、この世の片隅で、どこかで同じように生を授けられた。 生命という無数にある個体が大きな流れの中で、時に重なりながら、滅びるまでの道を泳いでゆく。生を受けて、みなが紆余曲折をし、荒れた塗装されていない道を滅びるまで歩んでゆく。心と心はそこまで近づいている。しかし、人と人が人であるがゆえに傷つけ合う理由が

          雲が空を覆う、空腹を感じることは生命を感じること、おにぎりは帰ってから

          寂しい、という心持ちを抱えている。悲しいとは違う。似ているようで違うもの。 寂しいという心持ちは、心を温めるもの。だから悲しみとはやや違う。 寂しさは、離れてよくわかるものかもしれない。親元を離れて、22年と少しの間を過ごした家を離れ、愛猫と離れて、彼らがいる風景を思い返すたびに、心があたたかい何かに包まれる。それは何だかわからない。外側は冷たくなっているのに、内側は温かくなっている。寂しさがわたしの心に与えるもの。それが長い間そばにあれば、その心を温めるものとは、出会わない

          雲が空を覆う、空腹を感じることは生命を感じること、おにぎりは帰ってから

          人間は動くものであり、動いて感じる事がある。 動いて、精神、身体にストレス、疲労を与えることも、生きているからだ

          目の前の出来事に向き合っている中で、生命の挫折を味わうとき、自身の中に自身の目を向けられてない状況にある事が多い。 生命の挫折をより感じるときこそ、自身に目を向けるべきだと思う。無や、滅、割、破、このようなニュアンスを含むものを気がつけば恐れているようであるから、きっと無意識の中で恐れているのだろう。死ぬ事、生命が終わる事が目の前に現れた時、自身はどう思うのだろうか。心大きく乱し、恐怖と不安に苛まれながら、死を迎えるのであろうか。 自然の理を思い、心安らかに息が止まるのを待つ