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農業青年(絶滅危惧種)という存在

横の繋がりに、どれだけ救われたか。
(救われるケース多いなボク)

就農してすぐ、小松能美地区農業青年グループに入会した。
これは、小松市、能美市、能美郡をテリトリーにした、若手農業者の集まり。南加賀農林総合事務所が事務局をしてくれて、35歳以下の仲間がワイワイするヤツ。

入会当時に随分おっさんと感じた先輩農家さんよりも年寄りになってしまっていることに膝がガクガクするのを止める事ができないけど、けっこう長い時を過ごした。

社会人てのは、要はそういうもので、
高校や大学までの、プラスマイナス3〜4才くらいの人が間合いにいる世界から、急に干支一周じゃきかないくらいの年代の幅が間合いに入ってくるので、コミュニケーションもままならない。

同じ日本語なのに通じないっ!
あんなに練習したのに・・・

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15人くらい名簿には載ってたけど、
会に来るのは7人くらい。当時は、先輩らが親の愚痴をこぼしてるのすら勉強になった。「なるほど〜、この先、そんなのが待ち受けてんのな」と。

人数が人数なだけに、3年目くらいになると、役員になる笑

選ばれたのは、「県連理事」。
地区の上に県連があって、(さらにその上に北陸ブロック、全国がある)、担ったのは県と地区を繋ぐ役割ね。
県連理事になったと同時に、よく分からないけど北陸ブロック理事にもなり、一気に全国に。

当時は、愛知のトマトの石原雅大さんが会長。

あー懐かしくなってきた🥺
その年は緊迫した家族会議になるほど忙しくて、全協のお仕事は半分も出来なかったんじゃなかったかな・・・
今から思うと、年に一人二人いる問題児の一人だったのかも。
(そんなのが後に会長になったりするんで、わからんもんです)

あの頃、全国散り散りなメンバーの連絡手段は、メーリングリスト(ML)、掲示板、ブツブツ途切れるスカイプ。
最初は総務班に所属されてシーツ集め・・・という段取りになってたけど、翌日くらいには企画班に所属替えになり、新潟の保苅明子班長のもとに。(いま、ほかりで入力したらmacのなんかでフルネームがバッと出てグッと来た)

青森の工藤ヤスさんがエース級の活躍してくれて、農者会がいいものになったんすよね〜。彼の天職だったろうなアレ。50周年記念ということで、各県が旗を持って入場する演出や、歴代クラブ員のインタビュー映像とか歴史映像とか、ほぼ一人で完成させてた笑
ミスター全協と言われる片鱗が東北理事一年目にして出てたという笑

当時の理事会オペレーション再現しようと思ったらホント無理・・・笑

(メンバー思い返してた・・・懐かしい・・・)

ブロック理事の一年任期が終わった後は、全協(全国農業青年クラブ連絡協議会)には止まらず、県連理事だけのポストに戻る。

そんなこんなで、30歳を過ぎると、
「そろそろ、地区の会長とかやって終わるって流れだな・・・」
というマインドに。

というところで、大きく流れが変わったんすよねぇ。

石川県会長に宮野義隆さんが就任し、その後「県連理事に来い!」とご指名が来て、県連理事に返り咲き。

んで、宮野さん3年会長した後、「次、お前な」という会長ご指名が来て、県の会長になることに。その年が、県の農業青年50周年と重なり、北陸ブロック大会も重なりってことで、大きな場数を踏む事に。

「そろそろ、県の会長おりたら終わるって流れだな・・・」
というマインドに。

というところで、またまた大きく流れが変わったんすよねぇ。
全国の会長になった話は、改めて話そう。そうしよう。


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