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ガクトの脊髄雑記

最近、心を開くことだったり、胸を開くという話をすることがあります。ゆーて、私として隠しているつもりもないのだけれども、「本の話はなんどかしているけど、どういう猫なのかはよく分からない」みたいなことを言われるみたいな感じすね。
なので、たまには胸の内を開いた記事を書いてみようと思ったところでして。

同時に本記事は何かを誰かに伝えるための記事ではないので、構成とか特に考えずふわりふわりと気が向くままに書いていこうと思っております。
つまりわかりにくい文章だし、理解されようともしていない拒絶の文章になります!!!!! 

対よろです!!!!!!!

そもそもなんで自分の話をしていないのか

書三代ガクトの名前の元ネタは書見台です。
私もインターネットで活動する以上、書三代ガクトは実質ペンネーム的なものでして、猫の姿、編集者の姿では別の名前を持っていたりもしたり。

そして書見台は本を読むための台です。つまり書見台自体には自我がなく、注目されるのはその台の上にある本や書物です。

つまりそういう存在になりたいですし、なりたかったんですね。
外部情報をどこまでも排除して、誰が語っているのか、どんな状況で語っているかは関係なく、ただただあるのは本だけという状況になりたいと思っておりました。
同時にそれが不可能であることを私は知っているのですが。

そのため今までコンテンツよりも自分が前に出るような雑談配信はあまりしてきませんでした。
ただありがたいことに最近は私の話を聞きたいという方やそれこそ本心(?)について知りたいという方もいてくださるようでして。
非常にうれしいという気持ちとともに、別レイヤーで活動当初から抱いている感情とはまた違ったものなので、なかなか悩みながらの毎日になっているかもしれません。

Vtuberと自我の話

様々なVtuberさんがいる中で改めてVtuberの定義とかを話す気はさらさらないのですが、個人的にはバーチャル存在(あるいはアバター)がネットで活動している方々という認識です。そしてバーチャルは仮想。つまり現実とは地続きではなく、あくまで現れるのは活動と思っていたりします。

けれど、仮想というものを強く示されたとき、人は自分との地続きな範囲を見出そうとしている気がします。構造としてはアンチミステリや奇書のように枠が揺らぐからこそ余計意識されるような形ととても似ていると個人的には思っております。

私はバーチャル存在ではあるので、Vtuberとして活動しているだけなのですが、逆に意識されるものに気づいていないことや、何より私自身の忌々しい強い自我が書見台から遠ざかっているような部分もあるかなと思いつつ。

とはいえ、今の状態を嫌がっているわけではないので、あくまで理想と現実のはざまに勝手に揺れているだけの昨今になります。

言葉の境界線について

話は変わりますが、感情はグラデーションだと思います。対象物に対してなのか、そうでない全般の話であるのか等いろいろあるかと思いますが、結局感情はいろんな色合いが混ざり合っている何かであって、そしてそれに対して境界を引いていくのが言葉だと思っております。けれど境界を引いて取り出したものは感情の一部でしかないですし、言葉に乗った感情さえも相手の解釈によって変容していくものだと思います。

結局、どの言葉を選ぶか、どういう言葉を使っていくかという部分がもとにある感情(その他出力されていく元)を知っていく一つの道筋なんだろうなと私自身は思います。そして言葉と言葉の言い換えの中で、ベン図的に重なり合うようななにがしがきっと感情に近づく何かであるのかなと思ったりするところです。

そしてこの感情というのは自我から発せられるものでありますし、いわゆる胸の内や心を呼ばれるものに肉薄していくと私は思います。

なので、私の本心(?)が知りたい方がぜとも配信で話しているものを触れながら言葉選びだったり、言い換えの中にある何かを見つめていたらいいかもしれません。

まぁ、本記事だって言葉で書かれていますし、ロジックもずれているし、どこまでいっても意味の分からないことを言い続けているだけなので。
ただこの迂回、心地いいよね。
気が向いたらまた破綻思考雑記を書こうかなと思います。

というわけで、同じ空の下、本を読んでいきましょう。

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