見出し画像

鉄とガラスの詩人 垂直/空間の発見

1921年、ワイマール・ドイツ、首都ベルリン。

ブルーノ・タウトの発行する建築季刊誌「Fruhlicht(「曙光」の意)」はベルリン気鋭の建築家ミース・ファンデル・ローエの計画案「フリードリヒ街のオフィス・ビル計画/鉄とガラスのスカイ・スクレーパー計画」を掲載した。

スカイ・スクレイパ―は、その建設中に大胆な構造身体を露呈している。その時にこそ巨大なスチールウェブは圧倒的に見える。けれども外壁がとりつけられると、すべての芸術的設計の基盤である構造系は、意味もなく平凡なさまざまな形式の混沌のなかに隠される。完成したとき、それらの建造物は、単に大きいということだけによって印象的である。けれどもそれらは、単なるわれわれの技術的能力の実証以上のものになることができるはずである。新しい課題を古い形式で解決する代わりに、われわれは、新しい課題の性質そのものから新しい形式を発展させるべきである。

新しい構造の原理は、われわれが外壁にガラスを使ったとき、もっとも明らかとなる。そして骨組み構造では壁体が荷重を支持していないからこそ、これができるのである。

ベルリンのフリードリヒ街駅前のスカイ・スクレーパー計画において、私は、三角形の平面の敷地に最適と思われるプリズム形式を用いた。そして広すぎるガラス面の単調さを避けるために、ガラス壁面に少し角度を持たせた。

私はガラス模型を研究して、この場合重要なのは光の反射の仕方であって、明るさや陰影ではないことを見出した。(Fruhlicht, 1, 1921)

ミース・ファンデル・ローエはそれまで支配的であった建築の外観様式の基準—「明暗」「陰影」を二次的な物として退け、建築の存在条件に「光の反射の仕方」を置いた。

「光の反射の仕方」とは何か。

「明暗」「陰影」が光が事物を照らすときに外界に事後的に生じさせた「結果」だとすれば(その「結果」を我々は建物の「姿」として見る)、結果的に生じた「明暗」や「陰影」だけでは水平方向に拡散していってしまう建物を、自律した「建築—空間」として成立させる垂直軸として「光の反射の仕方」がある。

建物の外部と内部を隔てるガラスの膜が拡散する光を受け止める反射版となり、空間を光の反射で満たす。ガラス窓は鏡となり一部の光を反射させる一方、一部の光はプリズムとなったガラス窓の向こう側に透過し、ガラスの建築の輪郭はそのふたつの相反する光の反射の仕方のなかにはじめて浮かび上がる。

ミース・ファンデル・ローエのスカイスクレーパーを支えているのは一見して強固な鉄の骨組み構造ではなく、建築物自身の内部と外部における光の反射の仕方の均衡によって生じる垂直性である。建物が高く聳え立つことが「垂直性」のなのではなく、建築自身の「垂直性」が建築を聳え立たせる(フリードリヒ街のオフィス・ビルは遂に実現されなかった)。

「重要なのは光の反射の仕方であって、「明るさ」や「陰影」ではない」という声が、鉄の骨組みとガラスの皮膜に覆われた部屋に響くとき、「空間」は不意に発見される。「明るさ」でも「陰影」でもない、ミースが新しい形式と呼ぶ「光の反射の仕方」の発見とは、それがそのまま「近代−空間」の発見となるような視座の発見ではなかったか。

「荒地」の詩人、田村隆一が「部屋のない窓」という空間に見出した「光の反射の仕方」。

一九五三年にジャコメッティの裸婦の彫刻のために、田村隆一がある美術雑誌に寄稿した「Nu」という一篇の詩がある。

 窓のない部屋があるように

 心の世界には部屋のない窓がある

 蜜蜂の翅音

 ひき裂かれる物と心の皮膚

 ある夏の日の雨の光り

 そして死せる物のなかに

 あなたは黙って立ちどまる

 まだはっきりと物が生まれないまえに

 行方不明になったあなたの心が

 窓のなかで叫んだとしても

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない

 ぼくの眼は彼女の声を聴く

(「Nu」『腐敗性物質』所収)

「部屋のない窓」という極限まで抽象化された空間の発見。詩人は後年、自らの一篇を思い出し、この生成の瞬間を説明する。

「室内のイメージというと、この詩が、どういうわけか、ぼくの頭に浮かんでくる。ゆたかな沈黙の支配するところ、この世の、あらゆる光りが微妙な変化のうちに、物と心を象るところ、それが、ぼくの心の世界では、まぎれもない室内なのである。」(『詩人のノート』)

蜜蜂の翅「音」。どこにも反射せず拡散する夏の日の雨の「光」。彼女の叫びが響くとき、其処に空間が生まれる。「部屋のない窓」という極限まで抽象化された空間。その空間において「ぼくの耳」は聴く機能を果たさず、「ぼくの眼」が叫びの「反射の仕方」を聴く。ここにはある「空間」の発見がある。

まずはじめに空間が在り、そこに事物が在って、「あなた」と「ぼく」がいるのでなく、その「反射のあり方」のうちに光が物と心を象るところにはじめて空間が生じる。「光の反射の仕方」が物と心を象るのであってその逆ではない。詩人の眼はその決定的な瞬間を発見する。

空間に反射する光の記憶の断片だけで構築された彼岸的な快楽。鳴らされる音楽と音楽が鳴る空間がメビウスの輪のようにぐるりとひっくり返るとき、あなたはそこに何を聴くだろうか。

大谷能生のその最初の記憶を読む。

「子供の頃にはじめてジャズのレコードを聴いたとき、その時に聴いた曲はこのアルバムの五曲目にも使っているんだけど、演奏それ自体もさながら、ドラムを一、二発叩いてチューニングしている音とか、ぼくはいまだにこれがうまく鳴らせないのだが、カウントを出す指を鳴らす音とか、モニタールームと曲名について会話している声が入っていたり、ライブ盤だと拍手はもちろん、食器の音とかキャッシャーの音まで演奏の背後に聴こえたりして」

「ミニマル・ビートの揺らぎのなかから、ずっと演奏のはじまらないある夜のヴィレッジヴァンガードの店内の音がループしているのは、個人的には彼岸的な快楽である」

1953年の1月、アメリカの西海岸「Haig」でライブ録音された記録—記憶の断片。磁気テープは音楽が演奏される「空間」—「ドラムを一、二発叩いてチューニングしている音」「カウントを出す指をならす音」「モニタールームと曲名について会話している声」「食器の音とかキャッシャーの音」—まで従順に記録する。乱反射する光の記憶によってもう一度目の前で生成される空間。

いま清潔なパーラーで飲み干すミルクセーキ

目の前で泡のように消えてゆく二〇世紀

ミシシッピー・バーニング

焦げたタイヤの匂いがまだ香る

いまここで最後の列車を見送って

薄紅色のスーベニールを火にくべる

季節はいま秋に入る


南から帰ってきた兵士が語る

モニター上に広がる妄想のパリ=ダカール

見えない両目に写るあの風景

ホメロス

褒め殺す

帰って来たのに犬にしか解らず

骨となった両足

漁師が見たマボロシ

ここから波止場まではまだかかる


塩の効いたコーンビーフを頬張りながら

七色に輝く記憶を強制終了


マグノリアの木にぶら下がる

奇妙な果実に蠅がたかる

七色に輝き光る

肉で出来たミラーボールが回る

フラッシュバック

フラッシュバック

(『strange fruits / jazz abstractions / yoshio obtain』)



これは今から五年ほど前に書かれた文章の断片。結婚してすぐ引越したばかりの、玄関の外から小学校のプールが望める小さなアパートの部屋の台所机で書いた記憶があるので間違いない。その頃、近代建築と戦後詩と録音された音楽としてのジャズに興味があったのだと思う。

止めどなく流れ続ける時間を何とかせき止めようと(それこそが人生であり生活と言われるのかもしれないけど)、思念の流出を断片的な光景として印画紙に焼き付けようとする。それは自分と世界との距離のとり結び方の確認作業であったのかもしれない。

過去の自分という他者によって書かれた文章を読むことで再起される思念が私を再起動するとき、再びPCの画面の上に断片的な文章が湧き出てくるであろう、その日まで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?