「社会学の体系」って。

「試合終了の笛は、次の試合開始の笛である」(ゼップ・ヘルベルガー)


うーん。これ教える側も困るってな。

ギデンズの「社会学」が包括的に行為・相互行為から構造・変動に関する“理論”を把握するのに良いと思うけど。全体像の把握なんで、じゃあそれって社会学の体系ってなると「うーん、古典から様々な考え方を網羅しているけど、体系というかそれを構成している様々な社会理論を知ることができる」って感じで「うーんもう社会学って何よ?」ってなりぃの「なんで、それを考えるのが社会“学”(;・∀・) ナン! (; ∀・)・ デス!! (; ∀ )・・ だぶん(自信がない)!!!」


アンソニー・ギデンズ(松尾精文他訳).2009.『社会学 第5版』而立書房.

 じゃあお前の考える社会学ってなんだ?って聞かれると

「社会って実態・実存はないもので、そこに輪郭を与えるモノで。今、目の前にある現象がどうして起きるのか?現象として多数の人が共有できるのはなぜか?つーのを個人やその個人を個人たらしめているものを視る・記述する。また、個人に還元できないモノ(構造だけどさらに構造の構造もあって無限にメタ化されていくんだけど)もあるのではないかと思うのでそれについても同時に考えていく。そうすると話がでかすぎるので"ある問題””ある場面”を通して説明可能な状態をゴールにする(縮減・限界の設定)」

 自分で書いても抽象的すぎてわからんなぁ。ということでヘーゲルの「絶望の道」に行くのね。知を「自分が知り得たもの・過去から蓄積したもの」として、真(真理・絶対知)を目指して探求したどり着いたとしても、それが本当に真なるものか(主観ではないのか)となると、さらにその地点で「地」になり、真理・絶対知をさらに探求が始まるの「絶対の証明」。そもそも“絶対”ってあるのかも含めて。

ヘーゲルは病まなかったのだろうか…

変な話。実存する人間が終わる瞬間が死だとすれば、それまでに「どう生きるか?」っていうのは「死」を迎えるまで問われるし、「死」によって到達できるのかという前提もねぇ。。。



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