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吊り革、しらすおろし

土日は待ち遠しいけれども、いざ土曜が来たとて用事があるわけではない。
いつもよりちょっとだけ遅めに起きて、洗濯物を処理しながら頭の中でわずかな選択肢をかき集める。
映画、喫茶店、昼飲み、公園。昼飲みかな。
ちょっと遠くの街まで行ってみても良いかもしれんなあ。何せ、時間は無限にある。

洗濯をしただけなのに夕方になってしまった。これでは昼飲みにならない。土曜の時間の進み方は、他を圧倒する勢いがある。

僕の住む家から最寄りの繁華街までは、電車だとやや遠回りする1回乗り換えのルートで30分、自転車でも30分、時間通りに来る試しのないバスでも結局30分。だからいつも、その時の気分に合わせて交通機関を選ぶ。
特に理由もなくバスを選んだ。休日の夕暮れ、畑だらけの郊外から同じ市の中心街まで出向く用事のある人は大勢いるから、席には座れず吊り革に掴まってバスに揺られる。ただ1人で飲むためだけに吊り革を掴む自分を少し冷ややかに客観視する。街も、自分とは関係のない活気に包まれている。

この街にはWINSがある。
馬券なんて自宅で買える時代なのに、土日のWINSはいつも賑わっており、街にも博徒たちが溢れかえっている。
WINSの周りには汚い店が密集していて、居酒屋も、喫茶店も、120円で素うどんを振る舞う立ち食い屋も、どこもかしこも大音量で競馬中継を流している。彼らは競馬新聞を片手に街に現れ、WINSでわざわざ紙の馬券を買って、安店の安酒で安焼き鳥を流し込む。文明が進んでも、文化はなかなか廃れない。
ちょうどその日一番のレースが終わった直後の街は悲喜交々。勝った人は美酒に酔い、負けた人はリベンジを誓う。結果がなんであれ、酒は旨い。

そのうち1つの居酒屋を選んで入る。
怪しさにまみれた雑居ビルの1階で、ガタついた引き戸を強引に開けると、ほとんど通路を塞ぐように4人掛けのテーブル席が奥に向かって3つ、全て空席。そのさらに奥の左手に厨房と、厨房に面してカウンター席が5つ。カウンターの後ろ、つまり僕から見て右手にもテーブル席が奥に向かって3つ。10人くらい、みんな最終レースの予想に熱中している。ほぼ全員が知り合いという様相。椅子がひしめき合っているのでカウンターに辿り着くことすら難しそうだ。少なくとも一度通されたら最後、入口付近のトイレに一旦立つことはもう望めないだろう。

誰も僕に気づかない。店員はどれだ。トイレ脇に立ちすくむ自分は今どう見えているか、客観的に想像した。
ほぼ爺さんばかりの集団の中で、僕より10歳以上は下であろう、藍色のジップアップパーカーを着たギャルがテーブルの端に座ってゲラゲラ笑いながら爺さんたちと盛り上がっている。その女の子がこちらに顔を覗かせて、
「1名様ですか?」

1名様なので、当然カウンターの一番奥に通された。すみませんと口の中で言いながら椅子と椅子の間をようやく横歩きで通り抜ける。やはり家でトイレを済ませておけば良かった。
出来るだけこの空間の雰囲気を壊したくなかったので、コートを脱ぎながらいつも通りという感じで生ビールとしらすおろしを注文した。トイレ脇にぶら下がっていた古びたメニュー表を横目で盗み見ておいて良かった。

カウンターの向かいでは、都落ちした笠智衆みたいな老将が串を焼いている。串焼き器がカウンター側に置かれているので、向かい合って酒を酌み交わしているようなやや気まずい気分になる。
険しい表情で串を焼きながら、次の瞬間にはテーブルで呑む爺さんたちに「アレ、今日はキヨさんがいねェな」(キヨさんはいるが競馬で大負けしてしょんぼりしている)などと小粋な言葉を振りまいている。城下町で居酒屋を営むツワモノの生き様が感じ取れる。
この空間で競馬のことを考えていないのは、僕と、あのギャルだけだろう。大将も串焼きの合間に歪な形の小さな競馬新聞をバサバサ開いている。僕は一応中継を眺めながらスマホをいじり、さもネットで馬券を買っているようにも見える感じで振る舞う。誰も僕のことは気にしていないのに。

1杯目のビールが空く頃には、カウンターで1人で呑んでいる兄さんがギャルと盛り上がっている。「こんだけ勝てれば御の字だ」「え、オンノジって何?女?」ギャルはカウンターの端席に座って手を叩きながら笑っている。
盛り上がっている流れで「じゃあビール追加しちゃおうかな!」と注文する兄さん。
実は僕もそろそろビールをおかわりしたいのだが、この雰囲気を見せつけられると店員を呼ぶのも勇気が要る。そもそも、彼女が本当に店員なのかどうかもまだ確証がない。しらすおろしはかなり辛く、半分くらいは大根から滲み出た水分だ。

仕方なく、爺さんたちから注文された大量の鳥ナンコツを焼くしかめっ面の大将に「すみません、生ビールと、あと串の注文良いですか」と伝えることに成功する。驚くほどよそ行きの笑顔をこちらに向ける大将。やはりツワモノだ。
「はいよ!めいちゃん!」
もしかしたらみいちゃんだったかもしれない。のろりと立ち上がるギャル。ようやく、彼女が店員であることが確定する。

めいちゃんだかみいちゃんだかまいちゃんだかも、こちらにちゃんと店員っぽい愛想笑いで接してくれる。ホッとする気持ちと疎外感とが入り混じりながら、メニュー表に並んだ串を右から順に5種ほど頼む。
テキパキと注文をメモし、程なくしてジョッキのおかわりとつくねとねぎまを持ってくる。
「串、ここに入れて良いですからね」カウンターの隅で存在感を消していた白い筒状の陶器を指差し、よそ行き用のセリフを澱みなく述べる。

いつの間にか大音量の競馬中継は終わり、『名探偵コナン』が始まっていた。もうテレビには誰も目にくれない。兄さんは後輩と思われる人に電話口で「いいから今すぐ来いや!おごるから!」とこの店の名前を叫んでいる。爺さんたちは何とかとかいう馬が今日ゼッケン5番だったか10番だったかで揉めている。テレビから垂れ流される阿笠博士の推理が虚しく店内に響く。
本当はそろそろ焼酎に移行したかったが、メニュー表にはボトルしか書かれていない。訊けばグラスも飲めるのだろうが、今日は帰ることにした。次までにWINSのアプリを入れておこうか。
ようやくトイレを済ませ、外に出ると、さっきまで街に蠢いていた博徒たちはどこにもいなかった。ネオンとイタリアンと客引きが入り乱れ、ボアのブルゾンを着たカップルたちが繁華街を謳歌していた。

帰りは電車にした。

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