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祖父が町内会長をしていた意味

お寺でコワーキング

リディラバの仕事で3日間京都へ。
20時に京都駅に着いて、そのまま駅前の立ち飲み屋へ入りました。大鍋で作っためちゃくちゃ濃い味付けの煮込み1本でやってるお店で、大将曰く「薄味が京都っぽい味とかよく言われるけど、この店が本当の京都の味を守ってるんだ」とのこと。

翌日、明覚寺というお寺の住職をしながらお堂をコワーキングスペースとして開放している方の話を伺いました。
一見すると不思議な組み合わせのようにも思えますが、住職曰く「これが本来のお寺の役割だったんじゃないか」とのこと。
まちで暮らしている人は、毎日普通に暮らしているだけの人もいれば、実は何かに困っている人もいる。その困りごととやらも、「身体の調子が悪い」とか「勉強ができない」みたいな比較的わかりやすいものもあれば、言語化すらできない漠然としたものだって本当はあるはず。
身体の調子が悪ければ病院に行けば良いし、勉強したいなら塾に行けば済むのかもしれない。しかし、「何に困っているのか」がクリアでなければ、どこに行って誰に話をすれば良いのかもわからない。そうして少しずつ溜まっていく言葉にならない不安が、今や社会全体に覆いかぶさっている。それらを、「何となく話を聞いてくれそう」なお寺の住職として受け止めることが出来ないか、ということらしい。

コワーキングスペースの利用者は、営業周りで近くを訪れるサラリーマンが多いらしい。営業と営業の間に、パソコンと"自分自身"の充電をするスポットとして開放している、と住職は言っていました。
お寺のコワーキングに、何か利用者にとってわかりやすい「メリット」がある訳ではない。お堂に机を置くくらいの設えなので、畳の上に寝っ転がったりすることは出来る。あと、賽銭を入れる時に自然と何者かに手を合わせたりすることはある。住職曰く、この「手を合わせる」という営みが大切なんじゃないかとのこと。

他にもこのお寺は、子ども食堂をやっていたり、マルシェを開いたり、寺子屋を開いたりと、まさに「お寺」としての役割を現代でもう一度見つけようとしていました。
「京都」「お寺」といえば、めちゃくちゃ"観光的価値が高い"から集客に優れていたり、"文化的価値が高い"から保護されていたりするものだと僕も思っていましたが、明覚寺の風景はそういった価値の体系とは全く別のもので、僕の地元の近所にも昔はきっとあったような風景でした。
確かにそれは、現代社会になくなりつつある「何か」を守り復活させようとする、言葉に出来ない「意味ある営み」であるように思えました。


同じ日のどこかの場面で、京都の様々なプレイヤーの間に立って誰かと誰かをつないで何かが生まれる瞬間に立ち会うことをミッションとしているツナグムという会社の代表・田村さんがこんなことを言っていました。
「自分たちがやってきたこと、京都のプレイヤーたちが草の根でやってきたことは、世の中にとってどういう意味があるのだろうか。何か意味があることは何となくわかるが、どういう意味なのか、例えば数字などで見えるようにすることが出来るのだろうか。」
この話を聞いて、僕は自分の祖父のことを思い出していました。

町内会長だったおじいちゃん

僕の祖父は、横浜の下町で小さな糊(ノリ)屋を経営しながら町内会長を務めていました。
祖父は横浜の旧制中学に通っており、同級生は医者・弁護士・会社役員なんかがゴロゴロいる集団で、しかも祖父は級長だったので今に至るまでクラス会の取り仕切りなんかもしています。そういう訳で、祖父から同級生の活躍を教えてもらう機会も多々ありました。
しかし祖父自身は、曾祖父の糊屋を継ぐために大学へ行くことを断念しています。

祖父はいつも嬉しそうに自分の同級生の「雄姿」を僕に語ってくれます。
聞くところによると、僕が小さい頃に先天性の病気で眼の手術をした時も、祖父の旧友の医師が入院・手術の取り計らいをしてくれたそうです。陰に日向に、祖父の人脈は僕を支えてくれていたようです。
それらはとても嬉しいことなんですが、僕の心のどこかには何か引っかかるものがありました。
地元で糊屋の二代目を何十年も守り続けて、町内会長として地元のために尽くしていった祖父も、会社の役員とかそういう人たちと同じくらいすごいことだと直感的には思うのに、「それとこれとは別」といった、同じ土俵に並べられない雰囲気みたいなものを感じていたからだと今になって思います。

町内会長としての祖父の「雄姿」は、幼いころの僕も体感していました。
お祭りの時期に横浜へ帰省すると、神輿を守る集団の一番奥にいつも祖父が居ました。祖母はいつも婦人会を仕切ってひたすら大量のおむすびを作って運んだりしていました。正月に帰省すると、挨拶に訪れる近所の人や祖父の旧友が後を絶ちませんでした。

それらは間違いなく、周囲の誰かにとって意味のある営みを祖父が積み重ねてきた結果だと、今では確信しています。
でもまだ、それが本当に「意味のある営み」だと誰かに説明できるだけの根拠はどこにもありません。
一番近しい取り組みがもしかするとソーシャルインパクトボンド(SIB)なのかもしれません。SIBは、当たり前ですが「社会に利するアクションを"事業収益"に換える」ための手段として語られることがほとんどです。
でも僕個人としては、そういうお金の話以前に、祖父の人生だって他の同級生たちと同じくらい社会に意味あることなんだぜ、と胸を張って言えるようになるきっかけになれば良いなと思ってます。


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