見出し画像

今度こそ、リディラバへの転職動機を書いてみる

転職して丸1年が過ぎ、転職動機をしたためるためにnoteを開設したのですが、

↑こういう結果になりました。

会社紹介は、自分の事ではないので、一定の合理性・確からしさを守りながら書く必要があり、こんな文章でもめちゃくちゃ疲れました。

一方で「転職動機」は、どこまでも個人的であり内面の話なので、前回以上にのびのびと、

まずは自分の大好きな分野で、情熱を注ぎ込んだテキストを、サクッと書ける分量からはじめるとよいでしょう。無理せずに、楽しく書くのが挫折しないポイントです。
(noteヘルプセンターより)

を意識しながら書こうと思います。サクッと、を除いて。
noteの字数制限が何万字か知りませんが、とにかくどれだけの分量になろうとも、今回で書き切ります。

また、前回に引き続き、「画像をふんだんに使用すること」を遵守すべく、近所を散歩していた時に撮った写真を散らしています。

iOS の画像 (6)

転職動機とはそもそも何なのか

早速、サクッと書くつもりのないトピックから始めます。

後ほど書きますが、僕は大学時代に"科学哲学"という、極めてニッチで就活と縁遠い学科に所属していました。
そのため、就活を思い立ったは良いものの「加減」がわからず、新卒の就活では、プレエントリー200社・ES提出100社・面接数十社というオーバーキル気味の闘いを繰り広げました。

それでも1社1社、それなりに丁寧に「入社動機」を考える時間があり、比較検討する対象も(企業就職以外の選択肢も含めて)十分にあったので、ちゃんと口に出せるレベルに収まった「志望動機」を語っていました。

一方で、今回の「転職動機」に関しては
・かなり突発的に、瞬発で決めたこと
・ほかの選択肢をほとんど吟味していないこと
・転職先の得体が知れなかったこと(前回のnoteをご参照下さい)
・動機を説明すべき相手に(親や前職はおろか、転職先にすら)説明してこなかったこと
等の要因から、ちゃんとした言語化を試みないまま、現在に至っています。

故に、転職して1か月後のFacebookでも

「なんで(辞めたの)!?」と言われることも多いですし、私自身「なんで!?」なのかちゃんと説明できていないことが非常に恥ずかしいです。が、この会社と浮沈を共にする決意をもって転職を決めました。なので、「なんで!?」なのかに対する100点の回答はきっとあります。わざわざ後ろ足で砂をかけながら中学を飛び出して親に心配をかけ、わざわざ片道2時間かけて東京の高校に通って、東大に後期で受かりつつわざわざ科類選択で文科三類を選んで親と大喧嘩して、わざわざ全く知らない科学史・科学哲学専攻に飛び込んで、わざわざ急に就活を始めて親を安心させ、わざわざ転職して再び親と大喧嘩して、自分では全て納得ずくの人生なので、意味があるはずです。

というボカシを入れた報告に留まっていました。
正直「なんで転職したのか」「転職にあたってどんなことを考えていたのか」、聞かれてもあまり答えられませんでした。

とはいえ、「転職動機」が一般的にそう、という訳でもなさそうです。
例えば僕の今の会社のボス(僕をこの世界に引きずり込んでくれた人)はこんなnoteを綴っています。

本人は否定するかもしれませんが、転職にあたって必要な要素を、その当時からちゃんと考えているなあと思います。自分がやりたいことは何か?できること/やるべきことは何か?それを全うするために、ネガティブな要素を乗り越えられるか?・・・

断言しますが、僕は上記要素についてほとんど全く考えず、「えいや」で決めました。
なので、その当時に多くの人から言われた「好きなことに人生賭けるのは良いと思う!」、「給料下がっても社会貢献。えらい!」みたいな言葉も、親から猛然と「絶対に反対だからな」と、ほぼ生まれて初めて父権的に意思決定に割り込もうとされた時の言葉も、納得がいかないものの、うまく返してこなかった。

いま、転職して1年が経ち、「転職動機」の手がかりのようなものが1つだけ見えました。
もう一度、Facebookに書いた同じ文章を載せます。

「なんで(辞めたの)!?」と言われることも多いですし、私自身「なんで!?」なのかちゃんと説明できていないことが非常に恥ずかしいです。が、この会社と浮沈を共にする決意をもって転職を決めました。なので、「なんで!?」なのかに対する100点の回答はきっとあります。わざわざ後ろ足で砂をかけながら中学を飛び出して親に心配をかけ、わざわざ片道2時間かけて東京の高校に通って、東大に後期で受かりつつわざわざ科類選択で文科三類を選んで親と大喧嘩して、わざわざ全く知らない科学史・科学哲学専攻に飛び込んで、わざわざ急に就活を始めて親を安心させ、わざわざ転職して再び親と大喧嘩して、自分では全て納得ずくの人生なので、意味があるはずです。

やっぱり、どうやらそういうことのようです。
僕は、明確に言語化していないものの、リディラバに転職することに関しては、人生におけるその他の選択肢と同等に100%納得していましたし、そういう自分を信頼していました。
(僕は自分の事が基本的に大嫌いですが、自分の進路における意思決定だけは非常に信頼しています)

そこには、「この自分」という人生を生きてきた当人にしかわからない(=言語化する必要のない)納得感がありました。
だから転職したんです。それ以上の言葉が必要でしょうか。

は?言語化しないの?

じゃあこのnoteは何?

僕はこのnoteで、動機ではなく自分の半生を振り返ります。
振り返りさえすれば、それがそのまま動機になるからです。
誰にお願いされるわけでもなくいきなり、振り返りを通じて転職動機を語ります。宜しくお願いします。

iOS の画像 (14)

僕が生まれる前の話

このnoteも既に2,000字を超えています。
そんな中で、また長くなりそうな小見出し。

僕の曾祖父(母方の祖父方)は、久吉といいます。
僕が生まれる遥か前に亡くなったので、その生き様は遺影と伝聞でしか知りません。が、この人から始めます。

久吉はどこかの家から養子として横浜の旧家にやってきました。
どんな幼少期を過ごし、どんな学校で何を学んだのかは全く知りませんが、彼は横浜で「糊(ノリ)屋」を創業します。
塗る方のノリです。かつ、アラビックヤマトみたいなノリではなく、米とかから作る、幼稚園児が使うあのノリです。

僕が小さいころ、母の実家にはまだ糊をつくる工房が残っていました。
アパートの一室くらいの広さで、五右衛門風呂くらいの大きさの釜があったことを覚えています。その小さいスペースで作った糊で、久吉は男ばかり5人の子どもを育てていました。
どうやら、特に1925年の普通選挙法施行以降、選挙ポスターを貼る糊として一気に事業を伸ばしたようです。それを久吉が見越していたのかどうかはよくわかりません。横浜の小さい工房で作った糊を日本中に届けていたようです。

久吉が何者なのか、僕はこれ以上ほとんど知りません。
が、久吉を知る母は、彼を「ユダヤ人」だと思っていたそうです。なるほど、そんな顔にも見えますが、母はちょっと天然が入っています。

久吉の子どもたちは非常に優秀でした。
ほぼ全員が戦後に大学まで進学し、不思議と教師の道に進む息子が多く、慶應義塾高校の教頭を務めた者もいました。
中でも、僕の祖父は、横浜の旧制第一中学で級長を務めるほどの秀才でした。彼は自分では何も言いませんが、兄弟の中でもずば抜けて優秀でした。

そんな祖父は、兄弟で唯一大学に進学せず、何をしたかといえば、久吉の糊屋を継ぎました。
僕が小さいころも、祖父はまだ、同じ工房で糊を作っていました。
母曰く、母の小さいころに「遊びに行くから」とお駄賃を貰うとき、工房のレジ(ただの引き出し)から祖母がお金をくれたそうなのですが、引き出しの中身が10円玉2枚だけだった、とか、そんな感じだったようです。とにかくギリギリの中で、母と伯父(母の兄)を育てていました。

祖父は、PTA会長や町内会長(横浜の伝統ある下町)を長きにわたって務めていました。
僕が小さいころ、年に一度の地元のお祭りに行くと、町内会の重鎮が集まる詰め所の一番奥にいつも祖父がいました。母が小さいころからずっとそうだったようです。

祖父は東京の旧家から嫁(祖母)を迎え入れ、二人三脚で糊屋を切り盛りしながら、2人の子どもを育てました。
ちょっと天然が入った母と、伯父です。

この伯父は、現在、高校の倫理教師兼マルクス主義者兼ロックンローラーです。
どこまで書いて良いかわからないのでボカシますが、

・とんでもない量のあごひげを蓄えている
・ジョンレノンが死んだときに、持っているレコードを全部叩き割った
・養護学校に赴任し、ロックンロール部を立ち上げた
・妹(母)の結婚式で「妹を奪ったやつを殺す」という趣旨の歌を披露した
・現代社会の教科書編纂をしている
・『資本論』等の主要著作を原文で読破している
・趣味は昆虫採集(現在進行形)

という人です。
祖父(まだ生きている)は時折、僕の事を伯父の名前で呼びますし、母も「本当にあなたは兄貴そっくり」と事あるごとに僕に言ってくるくらい、雰囲気がよく似ているそうです。
勿論示し合わせたわけでは全くないですし、伯父と僕も毎年お正月に1回会うくらいだったのですが。

祖父は大変に生真面目な性格ですが、祖母・伯父・母はそれなりにおふざけをするタイプでした。母が、生真面目な父と結婚した理由が何となくわかります。

iOS の画像 (23)

「音楽」と「大人への反発」に捧げた少年時代

やっと僕の話を始めます。

僕が生まれた時、祖父は『広辞苑』を贈ってくれました。
その裏表紙には、祖父の達筆で「知ラナイ事ヲ恥ヂルノデハナク、知ロウトシナイ事ヲ恥ヂナサイ」という、電報みたいなメッセージが添えられていました。
僕には座右の銘といえるほど明確に「好きな文」がないのですが、強いて挙げるとすればたぶんこの言葉になります。それくらい、僕は「知」に対して貪欲な少年時代を送りました。

おそらく、その理由は2つあります。

①音楽への耽溺

意味が分からないと思うのですが、早々に音楽に触れたことはとても大きな財産だったと思います。

そのきっかけは、伯父です。
小学校3年生の時に、伯父から1本のカセットテープを貰いました。
ずっと昔に母に布教しようとしてうまくいかなかったテープが残っていて、ちょうどよいからお前にあげる、という感じで貰ったものです。

カセットには、ビートルズの中期における傑作アルバム『Rubber Soul』が収録されていました。

当時、千葉の田舎に住んでおり、娯楽がほとんどなかった僕は、以降数年間、来る日も来る日もこのカセットを聴き続けました。
余談ですが、「カセットにはB面がある」ということを誰も教えてくれなかったので、A面を聴いて巻き戻してA面を聴く、というルーチンを数年間続けていました。僕は未だに『Rubber Soul』のB面にはあまり思い入れがありません。

また、奇しくもほぼ同じ時期に『ハリーポッター』の和訳刊行が始まり、毎年発売日に欠かさず読み続けていたことで、僕は「イギリスってのはすげえ国だ」という、若干勘違いも含んだ憧憬を育んでいきました。

困ったことに、この「ビートルズとの出会い」が僕の「社会への屈折した目線」の始まりとなりました。

これは僕の持論に過ぎないのですが、音楽のように「広く誰もが触れる裾野の広さがあり、かつジャンルや歴史等が多層的である」文化というのは、「知識の卓越志向」(他より知識の量・質において秀でていたいという意志)を生みやすい。
つまり、「周りの奴らは"音楽好きです"とかいって、どうせJ-POPしか知らないんだろ?俺はビートルズ聴いてるからお前らより偉いんだ。」という感覚が、じわじわと僕を蝕んでいました。この症状(「中二病」の定義上の意味と極めて近いと思います)は、その後長く僕を襲い続けることとなります。

また、「ビートルズとの出会い」は、ルーツへの探求心も育ててくれました。
ビートルズはどうやって生まれたのか、誰の影響を受けているのか、ビートルズを敬愛しているミュージシャンはどれくらいいるのか。ビートルズを起点として、音楽の趣味はどんどん深まりました。
しかしその代償として、「俺はこんなにも良い音楽を知っている」という「卓越志向」をより一層深めていったということです。

②「経験」主義への反発

学校の先生に反発するという快感を覚え始めたのも、小学校3年生の時でした。今振り返ると、ビートルズを味方につけた「卓越志向」が関係していたのだと思います。

僕はシンプルに疑問を感じていました。
なぜ勉強をする必要があるのか。なぜ決まった時間に決まったカリキュラムに従って、みんなで同じ進度で勉強をするのか。教科書や先生は唯一の答えなのか。
その背景には、親が時折見せる父権的な「大人に従えば宜しい」という叱り方であるとか、親戚とか居酒屋のおっちゃんとかがテレビを観てよく言いがちな「勉強できてもこんな政治家になっちゃ仕方がない。俺たちは政治家よりも"市井の事情"をわかってんだ」という「"経験"主義」(僕は当時「親戚主義」と呼んでいました)的なものへの反発がありました。
そんな主張がまかり通るなら、自分はいつまで経っても「自分より長く生きている人」「自分の経験したことない領域の人」の、得体の知れない主義主張に取り込まれざるを得ない。それは絶対おかしい。
じゃあ何が「経験」に勝り得るのか。それは「知」だ、経験に優越する「知」があるはずだ、という信念を持ち始めたのが、この頃です。

最初のころは、「そうごう」という書き取り問題に「合」ではなく「合」と答えて先生を困らせる程度でした。
そこから、小学生の時にはクラスメイトを巻き込んで授業のボイコットをしたり、そこからもう一歩悪知恵を働かせて総合的学習の時間を占領したり、色々やりました。

iOS の画像 (17)

よくよく考えなくともわかる話なのですが、僕が反発したかったのは「"経験"主義」的なものが跋扈する社会全般であり、個々の先生とかには恨みも何もなかったです(反発したことに対する激しい叱りが余計反発を招いたりしたのですが)。
"経験"を貴ぶ社会の傾向が、世の生きづらさの原因であり、そういう意味では自分も先生も同じ苦しみを味わっている仲間のはずです。
それに対する後悔からなのか、当時の先生とは小学校卒業後から10年間、年賀状のやり取りをしていました。

「終わり良ければ全て良し」になってしまった中学時代

中学校に入学する頃、僕はこういう音楽を聴いていました。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズは、ルーツ辿り好きが必ず到達する、ワンピースでいうシャボンディ諸島のようなものです。
ブルース、ジャズ、R&B、ファンク、ロック、ポップス、ハードロック、ヒップホップ、グランジ・・・多様なルーツをはらみ、またそれらに敬意を表する音楽を多く生み出すこのバンドは、いろんな音楽ファンに愛されてきました。
また、セールス面でもかなり成功したバンドであることから、「ルーツは知らないけどレッチリ好き!」みたいなフォロワーも多いです。

先述の通り、僕は完全に卓越志向に毒されていたので、「レッチリ好きだけど、他のレッチリ好きとは違うし、敢えて自分の嗜好を曝け出して勘違いされたくない」みたいなことを考えていました。
学校ではむしろ、当時地元で流行っていたヒップホップ(西海岸系)が好き、みたいな立ち振る舞いをしていました。

中学校は、とにかく先生との関係が最悪でした。
小学校時代に引き続き、勉強は出来るけど先生や学校制度に納得できないからやらないというキャラクターを貫き、授業中は机の上に何も出さずに腕を組んで先生を睨みつけ、家に帰って必死こいて勉強してテストの成績を維持する、みたいな生活を続けていました。
(テストは、田舎の公立中学のくせに、総合成績上位者が開示される仕組みだったので、自尊心を守り通すために必死で勉強していました)

2年生になり、次第に学校に行かなくなりました。
といっても、一応毎日制服に着替えて、「行ってきまーす」とか言って家を出て、学校ではなく市立図書館に行く生活でした。自分で声色変えて学校に欠席の連絡をしたり、近所に住んでいる祖母に電話させたり、嫌な先生の授業だけ回避して午後登校したり。出席日数を狡猾に計算しながら、あの手この手で「面倒ごと」を最大限に回避していました。
小学校時代から引きずっている「知への欲求」と、テスト勉強に対する熱意だけが僕を支えていました。

テストだけ良くて授業態度は最悪。
2年生の成績(通信簿)は散々なもので、忘れもしない2年生最後の三者面談で「清水くんは、この成績では、どの公立高校にも行けません」という鉄槌が振り下ろされました。

3年生になって、僕は塾に通い始めました。
三者面談の言葉に衝撃を受けた母が、「先生を見返してやること」という、ちょっとよくわからない条件と引き換えに通わせてくれました。
面談で色々と吹っ切れたこともあり、そこからは無難に学校も通い、塾で猛勉強する日々が続きました。

まだ書きたいことは色々あるのですが、さすがに中学だけでここまで分量を割くのはキツイので、以降は箇条書きにします。

・3年生の夏休みを終えて、やっぱり公立高校は厳しい、となり、塾の先生の勧めで東京の国立・私立に目標を切り替える。
・塾のクラスを県内公立から国立・私立高校受験クラスに替えたところ、普通にドベでスタート。生まれて初めて勉強面での挫折を味わい、そこから気が狂ったように勉強する。
・一方、いよいよ学校で授業中にやることがなくなり、正負の計算が出来ないレベルのやつに勉強を教え始める。学校の授業は上位層にも合わせられなければ、実は下位層にも合わせられていない、という欠陥を打破しようとしたが、先生からは相当疎まれた。
・都内の国立高校(東京学芸大学付属)を受験するために、校長から形ばかりの承諾書を貰う予定が、僕の日頃の行いが祟ってまさかの「承諾拒否」が発生。校長と父がめちゃくちゃ揉める。
・結局、校長が折れ、承諾書をもらい、高校に合格した。

iOS の画像 (22)

総括なき中学時代。
結局、信念を貫き通して高校に合格してしまい、根本にある「"経験"主義への反発」「知的卓越志向」からの解脱は出来ないまま、高校時代に突入します。

生きづらさを感じながらも、先鋭化していく「卓越」を信じた高校時代

高校にもなると、同じ趣味の友人にも恵まれ、随分色んな種の音楽に手を付けていましたが、特に印象的だった曲の1つが↓です。

パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)のボーカル、ジョン・ライドンは、もともとセックス・ピストルズの人です。
ピストルズといえば、パンクロックのシンボル。従来の音楽・あるいは体制への反骨をモットーにしたパンクも、気づけば既存の商業主義にうまいこと取り込まれていき、反骨すればするほどウケる・儲かるという仕組みが出来ました。
そのパンクに対するアンチテーゼが、PiLを始めとするポストパンクです。

詳しくは書きませんが、高校時代にこの「ロック→パンク→ポストパンク」という音楽シーンの変化を追ったことが、「反骨(=卓越)という終わりなき闘いを続けていれば良いんだっけか?」という、僕自身の心境変容にもつながっていきました。

高校は、とにかく音楽に明け暮れていました。
軽音楽部に入り、エレキベースを始め、凝った音楽を聴き、それなりに授業をサボって放送室で友人と音楽談義に耽っていました。
周囲がバンド通ばかりだったので、自分の「卓越心」も極致に達しつつ、「もがきながら周囲に卓越しようとする自分」という影をうっすら感じ始めたのもこの頃です。

また、流石に高校にもなると(進学校だったこともあり)、周囲もそれなりに「知を武器にした反骨」をむき出しにするようになりました。
中でも一番多かったのは「学校の勉強なんて意味がない」という主張です。あるいは人によっては「受験勉強なんて・・・」というパターンもありました。校風としてカリキュラムに受験勉強的要素をあまり入れない高校でもあったので、「学校の勉強」⇔「受験勉強」という二項対立のせめぎ合いがありました。

僕は「学校の勉強」派でした。「受験勉強」派が多数派だったというあまのじゃく的理由もあるし、個人的に好きな先生がいたという理由もあります。
とにかく、僕は中学校とは打って変わって、学校の勉強に身を捧げました。

但し、好きな科目のみ。それは世界史と日本史です。
この科目は狂ったように、そこらじゅうの本も読み漁りながら探究を深めていき、「受験勉強さえしていれば良い」という層への卓越を仕掛けてまいりました。

僕にとって歴史は、ずっともがき続けていた「"経験"主義への反発」、「知的卓越志向」への1つの答えになるのではという希望の星でもありました。
歴史というのは、往々にして繰り返され、また、人の情動だけではどうにもならない「構造」があって、それに突き動かされた主体性なき仕組みの歴史でもあります。
これを読み解くことが、自分の人生の「納得感」を高めるテーマなのではないかと考えた次第です。

高校3年の9月、文化祭、最後のバンド演奏の披露がありました。

ジャズ研究部からメンバーをぶっこ抜いて、こういう曲をやって、「わかってる人」だけに届けようとして、それは見事に成功しました。
(文化祭に訪れていた知らない父兄数名と、軽音楽部の顧問の心だけを狙い撃ちで掴んだ)
「卓越」を行動原理とした僕のこれまでの人生の、1つの終着点です。

それからようやく、やらなきゃ仕方がないので受験勉強も本腰を入れました。
僕は歴史系の学科に強いこだわりを持っていたのですが、実学を重んじる父から大反対を受けていました。何度か争った結果、「東大に受かったら勝手にしろ。落ちたら実学を学べ。」という約定を取り付けました。
ここからは再びハイライトでお送りします。

・受験勉強に行き詰まっていた2010年11月22日(Twitterに書いてあるので明確に日付が分かる)、夢の中にムハンマドが登場し、「センター試験の勉強をしなさい」というお告げを授かる。
・それから狂ったようにセンター試験の勉強をする。主な勉強法としてカイジ式勉強法(この問題を間違えると死ぬという強い自己暗示をかける勉強法)などがある。
・無事センター試験で好成績を収め、その代償として東大の前期試験で大爆死する(2011年3月10日)。
・2011年3月11日、東日本大震災。
・2011年3月13日、1日かけて上京し、東大の後期試験を受験。小論文の科目にて出題文が古文(荻生徂徠)の問題が出題される。たまたま学校の先生の雑談を起点に勉強していたことから、勢いに任せて出題文を読まずに解答しちゃう。
・2011年3月23日、合格。現実感が全くなく、リアクションがあまりにも薄かったため、アメフト部から胴上げの声を掛けてもらえず、普通に帰宅。
・その後、父に黙って勝手に入学書類を「文科三類」(歴史、文学等)で提出(後期試験に合格すると実学系の科類も選べた)。父と30日間戦争状態に突入。

iOS の画像 (5)

ひたすらに、自分の信ずる知識をつけることで卓越を続け、世の生きづらさの根源にある「"経験"主義」を打ち倒そうとしてきました。
もう引き下がれないし、今こそ文系学問の真価が問われるという社会的風潮もありました。学問に身をやつす決意と共に、大学の門をたたきます。

占いにショックを受け、逆方向に大きく張った大学時代

この頃聴いていた音楽の一例。

ザ・フーは、ビートルズとほぼ同じ時期に活躍したバンドで、デビュー初期には英国の労働者階級の怒りを代弁しながらギターをぶっ壊すパフォーマンスで人気を博しました。「ジジイになる前に死んでしまいたい」という、激情が込められた歌詞が有名です。

しかし、この『Long Live Rock』では、タイトルの通り、その真逆を歌うようになっています。
ちょうどその当時はパンク・ロックが台頭し、「ロックは死んだ」と言われていた時代でした。
パッと燃えてすぐ消えることを全く恐れない、若さで黎明期のロックを支えたザ・フーが、パンクの台頭を眺めながら「長生きしろ」と歌うというこの変化が、当時の自分にも衝撃的に映りました。

さて、大学時代も色々ありましたが、僕は紆余曲折の末に「科学哲学」という道を選択します。

その背景には、勿論、社会情勢もありました。震災が起き、原発事故が起き、科学的な合理性に対する問い直しのうねりが高まっていました。

しかし、僕はそれ以上に「科学哲学」の甘美さに惹かれました。
科学哲学を兼ね備えた学問って、もう無敵じゃないですか。
僕は、知ること・学ぶこととは「卓越」することだと信じていましたし、卓越するためにはより広く・深く・手前から「前提を問い直すことができる」領域に進みたいと強く考えていました。
その結果、もっとも「卓越」できるであろう分野に進んだ、という訳です。
そのまま学問に身を捧げて死ねば良いやくらいに考えていたので、将来のことはほとんど考えていませんでした。

因みに、リディラバ代表の安部敏樹を初めて知ったのもこの時でした。
あるオムニバス講義の、再生可能エネルギーを取り扱った回で、これまで一度も見かけたことのない、髪がボサボサで度が強い眼鏡をかけた破天荒で面倒くさそうな雰囲気の大学院生が、講義中の教授へ急に論争を仕掛けたのです。
僕自身は適当に受けていた講義ですし、その論争の中身も全く覚えていないのですが、「こやつ、出来る!」という感覚だけがずっと残っていました。
教授の「いや、アベくん落ち着いて」という言葉と、その特徴的な風貌だけを頼りに調べてみると、「リディラバ」という怪しい団体に辿り着きました。
その時は、「へえ~」だけで終わっています。

そんなある日に、ひょんなこと(献血を受けた人向けの無料サービス)で占い師に手相を見てもらう機会があり、そこで「あなたは世の中を"生きづらい"と感じていますが、あなたは実は、世の中を生きづらくしている側の人間です」と言われました。

それ以上深掘りもしていないし、どういう意図でそう言ったのかもわからないし、献血センターの無料サービスの占いがどの程度のクオリティなのかも全然知らないですが、僕は大いに衝撃を受けました。

自分は今まで何者かと闘い続け、闘うために「卓越」として知を身につけ、そして"哲学"という、ある種の「知を求める者たちの終点」まで流れ着きました。

しかしその結果、結局何かと闘い、打ち勝ってきたのか?といえば、おそらくそうではありません。
いつしか「卓越」だけが生きる目的と化してしまい、何も得られず、何も残さず。

知ること・学ぶことの真髄は、「卓越すること」ではなく、「行動すること」にあると、急に痛感しました。
生きづらい世の中のメカニズムをどれだけ深く理解しても、それに対して冷笑するだけでは何にもならないし、自分はむしろ「社会の生きづらさの再生産」に加担しているだけなのではないかと。

ということで、大学3年生の終わりに、僕はいきなり就活を始めました。
僕にとって、「知」をこのまま深めるだけでは「卓越の泥沼」から逃れられない。行動に転化していくために、自分がこれまで憎んでいた「経験が跋扈する"社会"」に敢えて飛び込むことが、自分自身や後進に対して、何か意味を持ちうるはずだ、と信じたからです。
PiLやザ・フ―もそういう心境だったのでは、とか思いながら。

iOS の画像 (7)

卒業論文という名の遺言を書く

そうは言うものの、僕は卒業論文に命をかけました。

自分の人生を掛けたテーマとして、人間の知の限界に挑んだ科学哲学はとても魅力的でしたし、何より極めることで社会を変えられるかもしれないという淡い期待も、未だに持ち続けています。

そのため、僕は「一旦」大学を去る、という心持ちで就職をすることにしました。
学科の卒業パーティでも、偉そうに「僕はいずれ戻ります」とか言ってしまったことを覚えています。

故に、卒業論文は書いておしまいのテーマではなく、今後の人生で背負えるものにしたいと考えて選定しました。

卒業論文は「環境プラグマティズム」について書きました。
環境倫理学の一種です。

あまり長く書くつもりはないので安心してほしいのですが、環境倫理学とは、自然破壊を始めとする多くの環境問題を「倫理学」的見地から解決しようとする学問です。
しかし、従来の環境倫理学は、「自然を守るためにめちゃくちゃ小難しい哲学理論を構築しようとした結果、倫理学者同士で内部論争ばかりする羽目になって専門外の人から相手にされず、何の問題解決にも寄与しない謎の学問体系となり、しかも論争が終わらないので出来上がってもいない・・・泣」というものでした。
(僕の問題意識と重なっていることが分かるでしょうか)

環境プラグマティズムとは、
・「環境問題の解決」という環境倫理学の原点に立ち返るために、
・小難しい理論的な議論を一旦ストップさせて、
・社会の合意形成という「実践」に哲学者自ら身を投じながら、
・哲学者だからこそできる役割を果たしていこうではないか
という流派です。

これはもはや学問なのか?という批判を含めて、学界は揉めに揉めました。

環境プラグマティズムは、環境倫理学に留まらず、学問と社会のあるべき関係、というアジェンダをはらんでいます。
これって正に、僕がずっと悩んできた「知」をめぐる問題なんだと思います。
学問とは、学術界や研究室に閉じこもって難しい知識体系を創り上げることが目的ではなく、社会との関係を常に問いながら、問題を説(/解)いたり、実践の中で学びを抽出して新たな行動指針を打ち立てたり、というものなのではないか、と。
もっと広げれば、個人と社会の関係もそうなのではないか。個人の主体性って何なんだっけ、という論点も含まれる、かなり根本的かつ実践的なテーマだと思っています。

約束通り長くは語らないのでここまでにしますが、僕はこのテーマを今も大切に考え続け、いつの日か「修論」や「博論」に昇華させたいと考えていることだけ、付記しておきます。

リディラバに入社するきっかけ

という訳で、僕は紆余曲折を経て、新卒で企業に就職しました。

ここで多くは書きませんが、前職は本当に恵まれた環境でした。
今までアルバイトすら禄にしたことのない哲学科出身の頭でっかちに、社会のいろは、にほへとち位まで叩き込んでくれた会社です。
転職を決心した理由も、「辞めたかったから」では全くないです。

しかし、入社4年目当時の僕は非常に漠然と思い悩んでいました。
何に思い悩んでいるのかは、今までの経緯にほぼ書いていると思うので、省略します。
要は「学問に励むこと(≒個の人生)と社会との関係」を再定義したい、という自分の人生のテーマに忠実でいられるだろうか、という悩みです。

僕は新卒の就活において、上で語った「人生のテーマ」を公言していました。
本当に、そんな人間をなぜ採用してくれたのか。今でも頭が上がりません。
テーマを公言しながら就活していただけあって、僕は日本に数ある大企業の中でも一番納得できるところに就職させてもらいました。
社会と個人のあるべき関係を模索しながら、かつ「資本主義」的論理や「日本社会」的ルールも丁寧にくみ取りながら両輪での発展が課せられている、極めて難易度の高い企業。まちづくりを使命とした不動産総合デベロッパー以上はないだろうと思います。

そうはいっても、悩みは悩みでした。何なら就職直後くらいから悩んでいました。

そして、本当にふとしたきっかけから、「リディラバ」という単語を再度目にする機会がありました。
あれ?リディラバって何だっけ・・・どっかで聞いたような・・・

そして思い出す、あの大学院生の顔。
もしかしたら、ここなのかもしれない。いや、ここだな。決めた。

iOS の画像 (18)

以上が転職の動機です。

ふざけた話かもしれませんが、直接のきっかけ、またそこにおける心の動きは、本当にこれだけです。

勿論、その後また機会があって安部社長以外の人と出会って、確信が強い確信に変わった、みたいなのはありました。

尚、入社を決めるにあたって、安部さんに自分の半生をかいつまんで話したのですが、安部社長からはただ一言、

「自分が抱える悩ましさをアクションに転化し続ける覚悟があるならリディラバに来い」

とだけ言われました。


ここで敢えて、「まとめ」とか「なぜリディラバに入社したか」という考察を入れるのは、気恥ずかしいのでやめておきます。

・冒頭にリード文をつくろう
・一つの記事で一つのテーマを扱おう
・こまめに段落をわけ見出しをつけよう
・文末で要点をおさらいしよう
・公開前に音読をしよう
(noteヘルプセンターより)

1つもクリアしないまま、投稿ボタンを押します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?