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競輪に熱狂していた祖父の記憶

リディラバの仕事で初めて行った東京都府中市。
フラットスタンドという、医療福祉の専門集団だけどその正体を敢えて明かさないまま、街の中でカフェを営むお店です。

お店には赤十字マークももちろんないし、何なら府中(多磨霊園)の街並みからはちょっと浮くくらいおしゃれで居心地の良いコーヒースタンドという感じで、医療福祉とは無縁な近所の人たちも当たり前のように利用しています。
でもよく注意して店を見回してみると、カフェっぽい本が詰まった棚に義足の写真集が無造作に置いてあったり、介護なんとか講座のチラシが片隅に貼ってあったりと、アンテナをしっかり張れば「ただのカフェではないな」という違和感をかすかに感じることができます。

この絶妙なこだわりにはちゃんと理由があって、要は「医療福祉とは敢えて関係のない"ゲート"を作る」ことで、医療福祉の世界と日常世界の橋渡しができないか試行錯誤している過程が、このカフェだそうです。
医療福祉というのは、普段何の不調もなく健康に過ごしている人には正直無縁に思える世界。歳を重ねたりして、やむにやまれず必要に迫られたら初めて接触する人が多いためか、日常生活から大きく切り離された遠い世界に自然と位置づけられています。
でも本当は、誰だっていつ必要になるかわからないのが医療福祉。それにこれだけ日常生活から離れていると、必要になったその時に誰に相談すれば良いのかすらわからない。だったら、もっと普段から身近にさりげなく医療福祉へのゲートを作っておいた方が意味があるんじゃないか?
そういうことをざっくり思い描いて、今そこでカフェをやっているそうです。

そのカフェの取組みの延長線上で、一時期は別な場所で飲食店の営業をしていたこともあるそうで、唐揚げを食いながらハイボールが飲めちゃう、普通のお医者さんに見られたら叱られちゃうような空間だったらしい。
でも確かに、医者が勧めてくるような薄味で食べ応えのないメシばかり出してくる飲食店なんて、本当に"ゲート"を必要としている人が訪れる訳ないんですよね。

僕が一番印象的だったのは、初めてそのカフェに訪れた時に目撃した、街のサイズ感と完全に不釣り合いな警備員の量でした。
何の変哲もない駅前の小さなメインストリートに、イオンモールの出入口くらい警備員のおっちゃんが張り込んでるんです。
彼らはフラットスタンドの警備では(勿論)なく、15分に1回くらいのペースでやってくる大型バスの停車を誘導する仕事でした。そのバスというのは、近くにある多摩川ボートレース場と多磨霊園駅を結ぶシャトルバスです。バスのドアが開くと、様々な表情をしたおじいさんたちが30人くらいドドドッと降り立って、フラットスタンドの前を素通りして、吸い込まれるように多磨霊園駅の改札に消えていきます。そして今度は多磨霊園駅から現れた別の30人を乗せて、またボートレース場へと去っていきます。それが15分に1回。

本当は、と僕が勝手に思っているだけですが、おじいさん30人のうちだれか一人でもフラットスタンドに立ち寄ってくれたら良いのになと思います。
でも僕は、ひと勝負を終えた彼らがおしゃれなカフェなんかに気づくはずがないということもなぜか知っている気がしています。


僕の祖父、昨日話した糊屋ではなくもう1人、父方の祖父は、工業学校を卒業してから40年間、ベアリング製造の工員一筋で息子2人を育てました。
息子(父)には随分厳しかったと聞いていますが、孫である僕にはものすごく甘く、小さい頃からとにかく可愛がってくれる優しいおじいちゃんでした。
夏休みに実家へ遊びに行くと、僕を自転車の荷台に乗せてあっちこっちに連れまわしてくれました。水遊びしたいと言えば近所の公園に、うなぎが好きと言えばうなぎ屋に、ベイブレードが欲しいと言えばデッカいトイザらスに連れて行ってくれました。
父に「危ないから2人乗りは勘弁してよ」といつも言われて、いつも笑いながらごまかす祖父でした。

そんな祖父との思い出のぼんやりとした片隅に、「何やらスポーツ観戦に連れて行ってくれた」というものがあります。僕から希望した訳ではどうやらなく、祖父が「どうだ面白いだろう」みたいな感じで孫をごまかし、場内はめちゃくちゃタバコくさくて、あとお父さんには内緒ということも言われた気がします。これは状況証拠からして明らかに孫を近所の競輪場に連れて行ってます。
祖父は根っからの競輪狂でした。

競輪場にも自転車で、しかも時たま8歳の孫を後ろに乗せて通っていた祖父は、なかなかの体力と根性の持ち主だったと思います。
目を閉じて頑張れば、競輪場から帰る時の祖父の独特の雰囲気がうっすら思い出せそうな気がします。贔屓の球団が勝った帰りとは明らかに違う、でも何が違うのかはわからないあの独特の高揚感。あるいは、贔屓の球団が負けた帰りを遥かに超える悲しさ、怒り、そしてなぜか爽やかさみたいなのが、なんかあった気がします。
僕にとっては、猛スピードで風を切って走り、時たま平気で信号無視をしたりする祖父の荷台はいつも痛快で、そんな小さな変化はほとんど気にも留めていませんでした。

それから15年くらい経って、歳のせいだけでは済まないような色々な苦難が祖父を襲い、彼は猛烈な頑固ジジイになりました。酒癖の悪さが祟って旧友と喧嘩別れし、囲碁を打つ相手もいなくなり、最終的には僕の家族ともうまくいかなくなって、亡くなるまでの最後1年くらいはほとんど顔を会わせる機会もありませんでした。
僕が最後に祖父に会ったのは、実家から少し離れたホスピスで、その時にはもう手を握るのもやっとの状態でした。

祖父の訃報を聞いて、僕は父とともに、祖父が一人で暮らしていた実家を久しぶりに訪れました。何も変わらない、でも不気味なくらい片付いている、というか生活感のない日本家屋。
しかし祖父のベッドの周りは、リモコンと、カップ麺のフタなどの各種ゴミと、薬ガラと、読みこんだ形跡がくっきり残ったスポーツ新聞と、それと多分全部外れているであろう競輪の車券がたくさん散らばっていました。

なんだかすごい不思議な感覚でした。
独身寮時代の自分のすさんだ部屋を客観的に見ているような物悲しさもあったし、もし囲碁を続けていれば・もし酒癖がもうちょっとマシだったらといったタラレバをあれこれ考えてしまう気持ちもあったし、でも、他のすべてがどこかにいってしまったとしても競輪への執念だけは最後まで燃えたぎっていたことへの頼もしさというか「流石じいちゃん」的な嬉しさも感じました。

もし競輪場のそばにフラットスタンドがあったら、いや別にフラットスタンドじゃなくたって、何かしら誰かと競輪のことを楽しく語り合える居場所があったとしたら、どうなっていただろうか。というかそもそも、おじいちゃんにとって競輪って何だったんだろうか。
そんなことをシャトルバスの行列を眺めながら思ったりしますが、でもそれはやっぱり同情心とかでは全然なく、自分の祖父に対する不思議な誇り高さとか彼が最後まで熱狂したギャンブルに対する奇妙な親しみとかの方が強くて、僕も試しにその行列に紛れて競艇場に行ってみて、初心者らしくスカッと負けてしまったりするのでした。


リディフェスのチケット、買って下さい。


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