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永遠のウッドストックフェスティバル

僕の高校では、3日間の文化祭会期中ほとんどぶっ通しで、中庭で高校生バンドがかわるがわる演奏する「中庭ステージ」という催しがありました。

中庭は水泳部が出してるたこ焼き屋とか、なんとか部が出してる焼き鳥屋とかでごった返していて、そもそも校舎間をハシゴするための通路も兼ねていたので、バンド演奏によっぽど興味がある人は立ち止まるけど、ほとんどの人は素通りするようなステージです。
僕は軽音楽部という、運動部がちゃんと活動している我が校では日陰極まれる部活に所属していましたが、別に文化祭だからといって目立つわけでもありません。

そもそも僕の高校はどこかの大学にエスカレーターで行けるわけでもないのに、9月に文化祭を開くのが伝統になっていました。
さらに、3年生はクラスごとに演劇をやるというこれまた厄介な伝統がありました。役者はもちろん、(元ネタはあれど)脚本、演出、大道具、音響、照明その他諸々を素人集団が猛烈な練習量1本勝負でゼロから創り上げていくことに学年全体で熱狂するような風潮があり、裏方でも何でも良いから演劇に参加すること、参加しない人は「まああいつは変わり者だし」という感じになる雰囲気がありました。
そして、中庭ステージも軽音楽部だけのものではなく、なんとか部が引退した後に仲の良い数人で即席バンドを作ってめちゃくちゃ客を集めたり、そういう「思い出」を昇華させる舞台装置としての役割も期待されていました。

そんなこんなで、軽音楽部というマイナー部活の中庭ステージなんて、文化祭という一大イベントの中では全く光の差さない、99.9999%の人たちにとっては興味のない、無意味な活動なんです。
でも僕たちは、そのステージに受験生最後の夏を賭けることにしました。演奏するのは全4曲。1曲目として僕は、サンタナの『Soul Sacrifice』を選びました。


1969年。
ニューヨーク郊外のウッドストックにあるだだっ広い農園で、音楽フェスティバルを開催しようとした人がいました。
1万人くらい集まると良いねーから始まり、なんか20万枚くらいチケットが売れてしまい、チケットを持っていない人も含めて40万人以上が会場に殺到。トイレがない、メシがないの大混乱。なぜか会場での出産騒動が2件。

当時はベトナム反戦の流れを受けて、とにかく現体制がやることなすことへの反発と、保守的な社会機運をぶっ壊したいがためにドラッグとかセックスとかそういう解放的なことを敢えてさらけ出しちゃう、というヒッピーカルチャーが全盛期を迎えていました。
ウッドストックの音楽フェスも、音楽が聴きたいからというより、そういうもっと漠然とした社会の流れに乗りたい人たちが殺到したと聞きます。当時の映像を確認すると、無意味に半裸の人たちのなんと多いことか。
どれくらいの割合かはわかりませんが、ぶっちゃけステージの上でどんな音楽が流れるかなんて最初から興味のない人たちがものすごい大量にいるような、そういうフェスです。

時間管理もめちゃくちゃで、当初予定されていた20時から6時間以上前倒しで急きょ演奏を始める羽目になったバンド。それがサンタナです。
リーダーのカルロス・サンタナは当時22歳、圧倒的無名。その他、中学生みたいな見た目のドラムや、コンガを叩くリーゼントを始めとする、人種も風貌もバラバラなバックメンバー。何系の音楽をやるのかすら想像もつかない妙ちくりんなバンドです。もちろん大規模フェスでの演奏なんて初めて。
観客は「ビートルズを出せ~!!(出ない)」みたいな感じのが40万人。
これ以上アウェーな大舞台があるか、という環境下で、サンタナは衝撃的なデビューを果たしました。

「こいつら誰だよ」感が漂い、無理やり手拍子をさせるところから始まって、徐々に力を増していく圧倒的な熱量で会場の心を掴み、演奏が終わった時の歓声がとんでもないことになっています。

このウッドストックが最後の打ち上げ花火になって、ヒッピーカルチャーはその後急激にしぼんでいきました。
アメリカのポップカルチャーの中では、ウッドストックは「輝かしい栄光の記憶」として今も語り継がれているそうです。


もちろん、僕たちのバンド演奏が終わっても、歓声なんてありませんでした。
でも僕たちは、本家みたいな歓声を想像していたわけでは最初からなくて、僕たちがこの高校で生きてきたことをちゃんと表明したかったし、ちゃんと表明できました。別に後には何も残らず、翌日くらいからはただただ受験勉強をこなすマシーンへと進化していきました。


リディフェスのチケット、買って下さい。


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