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僕は僕なりに父の教えを受け継いだ

僕がリディラバを通じて出会った最初の「見知らぬ世界」が、大地の芸術祭でした。
日本有数の豪雪地帯である新潟県の越後妻有という場所で、各所の集落にちりばめられた現代アートをたどることを通じて、地域で培われてきた今も続く営みであったり、あるいはその記憶みたいなものを感じ取ることができる、3年に一度のアートイベントです。

現代アートなんて、知らない人からすれば取っつきづらいことこの上ない「芸術の極み」みたいなイメージですし、僕もそう思っていました。
しかし越後妻有では、世界的アーティストと、アートなんて見たことも聞いたこともないような集落の方々が、アートを共同制作・共同運営しています。
例えば、集落の記憶が詰まったまま廃校となった小学校は施設丸ごと絵本のような美術館に生まれ変わり、集落の人たちが1年を通してメンテナンスし続けています。道端に置かれている赤ふんどしを履いたトーテムポールのような木彫たちは、集落の人たちの心意気で冬服を着せてもらったり、最近はコロナなのでマスクを支給されたりしています。改装された築100年の空き家では、集落のお母さんたちが僕たちに料理を振舞ってくれます。

これらの現象は「現代アートなのに」ではなく、「現代アートだから」らしいです。面倒くさく、手間ばかりかかって、生産性なんてこれっぽっちもない、そんな「赤ん坊」のような存在だからこそ、現代アートには人と人とのつながりを再定義する力があったといいます。
そして、そうやって再び形成されていった地域のつながる力に引き込まれ、50日間の会期中には世界中から数十万人もの来訪客が、人口数万人の越後妻有を訪れています。

「地域」が向き合うことを強いられている課題は非常に重いものです。
何百年、何千年と受け継がれてきた集落の暮らしは、押し寄せる波に急激に追いやられ、いつしか地域で生きていくことは「やむを得ない」「出て行けるなら出て行きたい」というものへと変容していった。実際出て行く人が後を絶たなくなった現状は、越後妻有に限った話ではないだろうと思います。

大地の芸術祭がやろうとしていることは、誰が作り出したかも最早わからないそういった波を問い直すことだと僕は感じています。
仕方ない、時代の流れだと一言で表してしまうことは簡単だし、ましてや僕のように外で生きてきた人間にとっては、そこで生きてきた何千年分の人たちのリアリティを感じ取る機会すらない。だから地域で起こっていることなんて知らないし、表面的に情報として知っても心が動かない。本当は僕だって、お米を食べて、自然の景観を楽しんで、誰かが必死に守ってくれた文化を日々消費しないと生きていけないのに。
大地の芸術祭は、そういうことを説教くさくなく背中で教えてくれました。だから越後妻有は、「見知らぬ世界を教えてくれる場所」という風に映りました。

大地の芸術祭にリディラバを通じて出会えたことは、僕の人生にとって最も幸運で、最も人生を変えてしまった瞬間でもありました。すごい手短に言うと、僕は大地の芸術祭に出会ったことで、新卒で入った大企業を捨ててリディラバに転職しました。
リディラバは、「見知らぬ世界」を1人でも多くの人に体感してもらうことがミッションです。だから、常にリディラバは外から越後妻有に訪れ続けます。僕ももう20-30回くらい仕事で訪れることができました。
妻有の人たちは、リディラバだからではなく、常に外から来た人たちを歓待してくれます。美味しいごはんを食べさせてくれるし、棚田をキレイに整備して、作品を丁寧に守りつづけてくれています。
帰る時はいつも後ろ髪を引かれる思いです。僕は2-3日思いっきり非日常を満喫させてもらって、そのたびに妻有のことが好きになって、帰って東京での日常がまた始まる。でも妻有の人たちにとっては、リディラバがいなくなろうが、芸術祭が終わろうが、明日もまた妻有での日常があります。冬の雪は厳しいし、人が減り、集落が閉じていく流れも変わりません。

また来ます!また誰か連れてきます!ごちそうさまでした~!!
そうやって元気に去るくらいしか僕には出来ず、上越新幹線の下りに乗る時はいつもそういった気持ちを抱えながら、はしゃいでいた疲れがのしかかっていつの間にか爆睡するのでした。


父の話をします。
礼儀作法、勉強、スポーツ、左利きの矯正、その他諸々、何においてもとにかく猛烈に厳しい人で、小さい頃から色々なことを叩き込まれました。家族のキャンプでテントが組めるようになるまで3時間みっちり指導されました。買ってもらったボンバーマンゲームの敵の造形が怖くて泣いたら、返品してこいと言われて寒空に放り出されました。小学2年生の夏休みの宿題で絵日記を描いたときは、「スイミングの帰りに食べたチョコモナカジャンボ
」という絵のチョイスに激怒されて書き直しを食らいました。
中でもご先祖さまに対する礼儀は、最早執念といえるレベルの凄まじいものがありました。盆や彼岸のたびに6カ所くらい墓参りに行き、先祖の家系図を暗記させ、小学2年生の時には夏休みの自由研究で祖父母の戦争体験を記録する羽目になりました。
両方の祖父のそのまた祖父がどこで生まれて何をしていた人かまで、父は自分でボロボロの墓誌を読み解いたりして調べ抜いて自分で家系図を作ってしまうほど、先祖の探究に没頭していました。「先祖がいるからお前がいるということを忘れるな」が今日にいたるまでの口癖ですが、わかったようなわからないような気持ちでいつも聞き流していました。そういえば結婚報告をした時の第一声も「墓を頼むぞ」でした。

そんな父なので、彼の幼少期の体験もよく聞いていました。
父方の祖母の実家は農家で、父は小さい頃からかわいがられてよく遊びに行っていたそうです。父が来たから今日は鍋にするべ、ということで元気に庭を走りまわっていたニワトリがキュッと〆られて自責の念に駆られた、という話は20回くらい聞きました。汗だくになって田畑の手伝いをやって、昼どきにもらうキンキンに冷えたきゅうりが何よりのご褒美だった、みたいな話も50回くらい聞きました。
僕自身はそういう農業の暮らしに触れた記憶がほとんどありませんが、父から重ね重ね聞きつづけたおかげで、体験したこともないそういう営みが自分の心の中に風景として今もくっきり残っています。


大地の芸術祭で一番好きなアートは、『棚田』という作品です。
本物の棚田、今も地元の手で米作が続いている棚田の上に、ヒト型の造形物がいくつか鎮座しています。それらはみんな農作業をしています。
馬を使って機械を牽いていたり、教科書でしか見たことのない古そうな農具を使っていたりと、今の僕たちにはもう触れることが二度とできないかもしれない、農業の原風景みたいなものが現在の棚田に降り立っている作品です。
棚田の向かいにある展望台から作品を眺めると、手前にぶら下がった詩がその風景に重なり、言葉と風景の2連パンチで地域の記憶をたどることができます。

その詩の内容も、風景も、僕自身は触れたことがない「見知らぬ世界」です。
でも、父の言葉が蓄積されつづけていたせいか、それは"懐かしい"記憶として映りました。
別に父から馬で機械を牽いた話なんて聞いたことないし、雪国の棚田での営みは父の記憶とも全く違うものでしょうから、父が『棚田』を観たとして直接的に「懐かしい」とは多分思わない。それでも、父が僕に伝えようとしていた謎のこだわりが、20年くらいの時を超えて、現代アートの優しい仲介があって、やっと僕のもとに到着したような気がしました。

多分、この地域で今起こっていることは「見知らぬ世界」ではなかったんだと思います。間違いなく、僕の人生、僕の父や先祖たちもまるっと含めた僕の人生とものすごい関係があった。書いてて今やっと整理できました。もしかしたら、もう後ろ髪をひかれる気持ちからはおさらばできるかもしれません。

父は、リディラバへの転職に猛反対でした。
ちゃんと説明していない、しようとしなかった僕が悪いんですが、でも説明しようとしてもうまく伝わる自信がなかった。『棚田』を観た時に感じた衝撃を、あの時の僕は全く言葉にすることが出来なかった。
でも、僕は僕なりに父の教えを受け継いだ結果、今リディラバにいるんだと思っています。それを言葉で伝えることは未だにできないので、父には越後妻有のお米を毎年送っています。


リディフェスのチケット、買って下さい。
越後妻有の原さんがオープニングセッションやります。


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