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リディフェスのチケット、買って下さい

僕は小さい頃から、不器用で、自分の思っていることをうまく口に出せなくて、でも謎の感受性だけはすくすく育っていった結果、今でいうところの「漠然と世の中生きづらい」みたいな感覚が心を巣食っていました。身近な誰かではなくもっと大いなる何者かに対する漠然としたモヤモヤを抱えこみながら、でもそれが「大いなる何者」とは定義できず、身近な誰かに対する幼い敵意としてしか発露することが出来なかった。
しかしそれなりにマジメに生きてきたつもりで、宿題もちゃんとやってたし、学校のテストも一生懸命良い点を取ろうとしてた。それなのに日に日に存在感を増してくるこの「何者」は一体何なんだと。
その対象に「社会」という名前がついていることを知ったのは随分と後になってからのことでした。
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「社会」という漠然とした概念を始めて認識したのは、自分の自由意志を制限する敵として、つまり自分が守りたい何かのために立ち向かい反抗すべき相手として、その何者かを定義できたときでした。なんで自分だけ、なんでこんなに悩まなきゃいけないんだ。それは自分の「敵」がこの世に存在するからだ。その思想のせいで身近な誰かに小さな迷惑をかけつづけていたし、「社会への反抗」という武功として心に閉まっておきたい良い思い出の裏には、今思い出しても恥ずかしくなるような良くない独り相撲の思い出がたくさんあります。
僕にとって「社会」とは、両親であり、先生であり、友だちであり、近所に住んでる偏屈な爺さんであり、自分を押さえつけようとしてくる「大人」たちでした。
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もう少し色々なものが見えるようになって、新聞やテレビを通じて出会える「両親の延長線上」「先生みたいな人たち」として、僕が認識できる「社会」の範囲は日に日に少しずつ広がっていきました。
世界で自分"だけ"直面していると思っていた日々の具体的な出来事は、世の中に広く起こっている出来事とほとんど同じで、それに直面して悩んでいるのも世界で自分"だけ"だと思っていたら、それもまたどうやら世の中的には当たり前の話で。
じゃあそんなに深く考えなくても良いはずなのに、なぜかモヤモヤからは抜け出せないまま僕もまた年齢的には「大人」になっていきました。
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もう少し冷静になって「社会」を見渡すようになってみたら、自分にとっての当たり前は誰かの当たり前ではなくて、自分が生きてきた日常では想像もつかないような現実があって、という情報が一気になだれこみはじめました。
だからといって、自分の日常を変えよう、改めようなんていう気にはなれなくて、大人になった僕にとっても「社会」は相変わらず厳しく、常に全力で泳いでないと流されてしまう荒波で、誰かのことを"構う"余裕なんてない、そんなことより自分が何とか生き抜くことを何よりも重視しなければという気持ちを維持することで精いっぱいでした。
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いつの間にか、僕はそういう世界を自分なりに受け入れて、仮想敵だった「社会」との付き合い方、いなし方をどうにか獲得できるようになりました。あんなに嫌っていた「社会」への解像度が上がり、実態のようなものが歳を重ねて少しずつ"わかってきた"ことで、「まあ所詮こんなもんだろ社会なんて」、みたいな理解というか慣れみたいな気持ちを身につけて、心を平穏にする術をちょっとずつ心得ていきました。
そんな修行の結果、小さい頃に比べたら生きづらさを感じることなんてかなり減ったし、ああこうして「大人」になっていくんだなあみたいな"懐かしさ"のタグを勝手に張りつけて、自分の小さい頃の記憶を無意識に押し込めようとしていました。
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たまに記憶と共に昔の感覚が湧き上がりかけた時には、僕には何の力もないし、僕が「社会」に対して出来ることなんてない、心をすり減らすだけでしょ、そんな感じのことを自分自身に言い聞かせて、違和感とはなるべく向き合わないように慎重に注意して、日常生活を継続させようとしました。
テレビをつければ、怖いニュース、悲しいニュース、文句を言いたくなるニュース、呆れるニュース。喉元すぎれば熱さを忘れ、またニュースを見る度に燃え上がり、やがてテレビを消してNetflixの平和な世界に移行することが僕の日常でした。
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僕は"ちょっとした弾み"で、そんな「社会」と向き合うど真ん中の会社に身を置くことになりました。心の平穏はなくなってしまったかもしれないし、他人から見れば「普通の人は考えない、やらないようなことを一生懸命考えようとしている」人種だと映るかもしれない。
でも、今だって、僕は守りたい日常生活の平穏と、「社会」と向き合うこととの間で、日々揺れ動いています。僕はたまたまそれを感じる機会が多い仕事だから"日々"と言っているだけで、たぶん半年に1回、1年に1回、あるいは何かの拍子で自分の子どもの屈託ない笑顔を見た時とか、親の人生の終わりを一瞬イメージした瞬間とか、何気ない日常のどこかで急に「揺れ」を感じる人は少なくないんじゃないかと思います。
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多分ですが、この世界はそういう「揺れ」を誘発する環境についてはとても充実しています。お前はこの世界が「良い」と思ってるのか?思ってないだろ?みたいな。だからたまに「揺れ」に気づくことは誰だってある。
でも、そんな「揺れ」の受け皿はほとんど存在していない。いや逆か。受け皿が無数にあるために受け皿同士での争いが起きてしまい、結局トータルの意味での「社会」が醸し出す厳しさはむしろ存在感を増す構図になっている。
だから結局、ひとたび「揺れ」が起きてしまったらそれが収まるのをひたすら祈って、また平穏な心に戻るのを待つしかない。僕だっていまだにそんな気持ちになる。
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多分、「それ」を何とかしてみたい。たぶん、それが僕が小さい頃からやりたかったことだから。
そして多分、それを「何とかする」営みは結構楽しい。理由は特にない。しいて言えば、この3年半、悩み苦しんだけどすごい楽しかったから。それは知的好奇心が満たされるからではなく、時にゲラゲラ笑えて、時にものすごいクオリティの映画を観たとき以上の喜怒哀楽を感じられるから。
超楽しいです。きれいな接続なんか出来るもんか。リディフェスのチケット買って下さい。


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