ある少年が見た陳腐で滑稽な幻想

第8章

 廊下は階下のものと変わりはなかった。天井までは三メートルほどあり、横幅はそれ以上ある。学校や自宅の廊下と比べてしまう陽輔にとって心細さを感じさせる廊下だった。長く広い廊下は彼を疲労させる。
 まず幹由の捕まっている牢獄の方へと行こうとそちらへ向かっていると大きな扉の前に着いた。中からは声が聞こえてくる。
「捜索は行っているの?」
「はい。百人規模で捜索を行っています。見つかるのも時間の問題かと」
「城外に逃げている可能性は?」
「はい、それも考慮し、町の方は数十人で捜索しています」
「よろしい。もっと動員させなさい。そして何もかもを喋らせるのよ。どんな方法を使っても構わないわ」
「待ってください、フローゼ様。彼らはまだ子供です。喋らせるにも方法は考えなければなりません」
「もうそんな事は言ってられないわ。私は命を狙われているのよ。警備を強化している。タンジー、どんな組織が動いているのかは分からない。けれど、それを知る機会なのよ。そしてその組織はもしかしたら子供すらこうして暗殺に使う非情な集団かもしれない。それを分かった上での発言なのでしょうね?」
「フローゼ様、私には彼らはそんな者には見えないのです。彼らと話をした時には暗殺者として教育された影は見えませんでした。武器も持っていません。以前に見た送り込まれてきた少年は激しい思想と厳しい訓練で作られた影がありました。そのような暗さがなかったのです。乱暴な事はお止めください」
「タンジー、これ以上、失望させないで。あなたは目が曇っているわ。城の中に侵入者、我々が聞いた事もない学校に出ている、私の暗殺未遂。これだけ揃えば捕らえるのに理由はいらないわ。一人がまだ見つかっていない。捕まっている者は潜伏場所を知っているかもしれないわ。だから喋らせないといけないのよ。武器が見つからない? 影がなかった? 優れた指導者に訓練を受けていたのよ。それら全てを犯行後に隠せるほどの教育を受けたに違いないわ」
「ですが………」
「どうしてそんなに侵入者の肩を持つのよ?」
 タンジーは答えなかった。
「フローゼ様、イングラス殿はあなたの身よりも他に考える事がありそうですな。少しでも身を守る事をお考えならばこのような意の異なる者を傍に控えさえておくのは危険が高まります。更なる警備の強化には私の隊をお使いください。我々はこの状況に立ち向かうべく一致団結した姿をお見せできるでしょう。不審者をかばい立てするイングラス殿こそが暗殺を手引きしていると考えてしまうほどにその侵入者に情を注いでいる様子。今だけでも側近から外す事をお考え下さい」
「ば、馬鹿な!」
 長い沈黙があった。陽輔はドキドキしながら扉の外で聞き耳を立てていた。
「そうね、そうかもしれないわ」
「ふ、フローゼ様!」
「タンジー・イングラス。当面、私の指示が下されるまで私の警護の任を解くわ。捜索はしっかりと行って。私は、今だけあなたが分からなくなってるの」
「そんな………」
「退室しなさい、タンジー」
 部屋の中に響くフローゼの声は悲しそうだった。陽輔はまだ聞きたいと思っていながらタンジーが出て来ると鉢合わせしてしまうと考えてその部屋から少しだけ離れた。
 タンジーは部屋から出てきた。三人の部下を連れている。肩を落としている姿は今にも倒れこんでしまいそうなほど弱々しかった。緩やかな足取りはどこに向かっているのか分かっていない様子であった。
 陽輔は遠くから彼女の背を見ていた。丸まっていて泣いているだろうと心配してしまうほどだった。陽輔は彼女に教えてやる事が出来る。隠し通路にいるその組織の一員を。彼らの企みを教えてやる事が出来た。
 離れていくタンジーの背を陽輔は一人で見守っていた。彼女の後に付いていく兵士たちは声をかけようとしない。長い長い廊下を行く彼女を陽輔はしばらくの間、何も考えずにただ見ながら立っていた。
 タンジーが見えなくなるまで目で送っていた陽輔はその小さくなってしまった姿が見えなくなるとすぐに彼女を見ようとする事は止めて幹由の元へと向かった。もうタンジーに関わる事は止めようかと考えているが、自分になら力になれるという思いが彼女との繋がりとなった。それを更に太く強いものにしておいた方がいいのではないかと考えるとどうにも踏み切れずにこの考えを引きずる事になった。
 甲冑を装備して剣を腰に差している陽輔は酷くぎこちない動きで廊下を歩いている。長い廊下を歩いていく彼を見る者があればすぐにも引き留めただろう。だが、彼にとって幸いな事に誰もその歩みを引き留める者はいなかった。
 悠々とした歩みは陽輔に油断と余裕を与えた。少し動きづらいが何ともないと思っている彼は自分の怪しさなど頭に浮かんでこなかった。そんな間違っているような余裕と油断が彼に一度だけ自室を見て来ようかという気にさせた。
 石造りの廊下を歩くと重たい甲冑は足に慣れない疲労感を与えてくる。陽輔は階段を下りる事にも一苦労した。足が悪いような動作で下りていくがどこにも異常はない。一段下りるたびに甲冑が体の上で少しだけ跳ねる。これは耐え難かった。肩が痛む。すると背中にまで響いてきて脱ぎたいとさえ思うようになったが脱ぐわけにもいかない。
 自室までの道のりはこれまでと同じように誰にも怪しまれずに向かう事が出来た。部屋の様子が変わって驚くフローゼを幹由と共に窺っていた場所と同じ壁に手を着いた。疲労と時間の経過が彼を少しだけ感傷的にさせた。
 壁の傍で辺りの様子を窺っていると自室の方から声が聞こえてくる。それもただ声だけではない。なにやらひどく言い争っている騒々しささえ聞き取った。
 陽輔はそっと覗き見ると扉が勢いよく開いた。ぞろぞろと兵士たちが廊下に出てくると陽輔は見覚えのある顔を認めた。アールストンの工房を出て取り囲んできた数人だった。やはりその中心には陽輔をきつく尋問しようとした黒髪の女性が立っている。
 陽輔の部屋で何をしていたのか。それが気になって仕方がない陽輔はなんとか話を聞こうとしてみるが声は耳まで届かない。話を終えた一団は歩き去っていく。陽輔はジッと探りながらその様子を見ていた。
 姿が消えてしまった事を確認すると自室の前までやって来た。見張りはいない。
「どうして見張りが居ないんだ?」
 答えてくれる者はいない。陽輔に答えたのは沈黙だけだった。少しだけ緊張しながら陽輔は扉を開いた。軋む音が鳴った。木造の扉が音を立てたのだ。陽輔が慣れ親しんだ音ではない。自分の部屋の扉を開けているという気持ちは起きなかった。
 開けた扉の先には手酷く荒らされている陽輔の部屋があった。本は破られ、壁や机なども傷つけられていた。棚も倒されて引き裂かれている布団を見た。踏み荒らされていて彼の好きだったものの全てが失われていた。見るも無残な光景は陽輔の自室の思い出や未踏の地における少ない拠り所の一つを残酷に破壊した。
 陽輔は中に入ろうとしない。そこには誰もいなかったのに。涙がスーっと一粒だけ頬を伝った。手は自然と扉から離れた。重みでゆっくりと閉じられていく。徐々に見えなくなっていく部屋を見ていると急に考えが閃いた。
「見張りが居ないのはさっきの一団が少しだけの暇を与えたからかもしれない」
 ふと浮かんだ考えを陽輔は呟いた。早くこの場を離れようと陽輔は考えた。半ばで止まってしまった扉を押して閉めた。やはり音が聞こえてきたが、もうそこは陽輔の自室ではなかった。
 一団が去っていった廊下の先を見て彼は力強く歩みだした。音が激しくなっていく。走っていた。決然とした何かに燃えた瞳で。
 廊下を曲がった。陽輔はまずタンジーに会う事を考えた。再び書庫へ向かった。隠し通路を使えば安全に偵察し、直接的に会わずとも話をする事が出来るかもしれない。
 書庫にはやはり誰もいなかった。そこを知るのは陽輔だけかもしれない。そんな思いが浮かんできた。同じ仕掛けを使って扉を開くと中に入ってすぐに甲冑を脱いだ。体が軽くなると彼は中を駆け出して多くの部屋の中にタンジーの姿を探した。
 彼女はなかなか見つからなかった。陽輔は自分の部屋の場所を思い出すと最初にこの隠し通路を使った時に覗き見る仕掛けがあったのに中を見る事が出来なかった部屋があった事も思い出した。その場所と陽輔の部屋の場所があっていたので隠し通路の道を正確に定める事が出来た。
 いくつかの部屋を探した時に見つけたのはタンジーの姿ではなく、あの黒髪の女性だった。他にも三名の兵士がいた。陽輔はこの者たちが甲冑を奪った兵士が話していた別動隊だろうと思った。
 壁で隔てられていても陽輔は息を潜めて中の様子を窺った。
「好都合に進んでいる。侵入者の存在は我々の行動を覆い隠してくれる。今が好機だ」
「はい、心得ております」
「準備は順調か?」
「はい、もう少しでご覧になれるかと。私もとても楽しみにしています」
「どんなものでもいい。素晴らしい報告を出来るようにしなければならない。あの女は生かしておくなと主が仰せになった。私たちにはそれが全て。今晩を決行の時としよう、獣を放つのだ。阿鼻叫喚に塗れる城内が早く見たいものだ」
「かしこまりました」
 興奮した陽輔はもっとよく聞こうと更に壁に近づいた。手が壁に触れて勢いづいた足が当たった。小さい、微かな音が通路の中に響いた。その瞬間にサーッと冷静になった陽輔は壁際から素早く離れた。
「なんの音だ?」
「静かに」
 黒髪の女性が音が出た方へと近づいて来る。陽輔はしゃがんで口に手を当てて息を殺した。
「穴が開いている。これはなんだ?」
 黒髪の女性がその穴に指を入れた。細い二本の指が探っている。陽輔は通路の中で片方が塞がり、女性の陰で揺らぐ光を見た。すぐそばにその女性の声が聞こえてくる。
「そこのペンを取れ」
「ペンを?」
「早く!」
 受け取ったペンを中へ差し込んでいく。ペンはするすると入っていった。黒髪の女は顔が蒼褪めていく。軸が壁の断面に触れる感覚を受け取って彼女はこの壁の厚さは十センチ以上あると推測した。
「空洞になっている。この先には部屋があるに違いない!」
 黒髪の女性はペンを抜き取ると壁のどこかに印のような物がないかと探し始めた。会話をしていた男たちは理解が追い付いていない様子で狼狽えている。
「誰かが聞いていた。我々の話を!」
 陽輔は持っていた石を嵌め込んだ。咄嗟の動きだったが好判断となった。陽輔のいる隠し通路はこれによって再び暗闇に満たされた。荒れた息が口から洩れている。パニックになっていた。見つかった驚きと襲ってくる後悔と不安が彼を何かの行動へと駆り立てていた。
「な、なんとかしないと!」
 だが、彼には何の当てもない。それを作るしかなかった。
「タンジーを探そう」
 荒れた息が少しずつ落ち着いてきた。石で穴を覆ってしまうと不思議と部屋の中の音は漏れてこなかった。
 陽輔は進み始めた。タンジーを探すと決めると力が湧いてきた。彼女にこれらの事を打ち明けるしかない。そして幹由を救い出すのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?