ある少年が見た陳腐で滑稽な幻想

第10章

 陽輔は隠し通路を使おうと考えていた。存在がバレてしまっているがそうするしかないと思っていたのだ。
 甲冑を奪った部屋まで向かう道順を幹由に教えた。こっくりと頷いた幹由は嬉しそうだった。
「隠し通路ってなんだかワクワクするよな。幸運なやつめ。最初に見つけたワクワクって最高だっただろ?」
「まあね。これで助かったって気になった。けど、臭いしネズミもたくさんいるから良いもんでもないよ」
 部屋までの道順のある大きな部屋の前で一人の男が佇んでいた。扉の前でくずおれるように力なく背を預けていた。何かを待っている様子だった。絶望し、希望を見出せない者が投げ出しがちに待つその時間だった。待っているのは人ではない。別の何かだった。
 陽輔と幹由はその姿を見ると立ち止まった。その先に進まなければならなかったが通り過ぎる事は出来なかった。危険なように思えた。見つかってしまう事よりも更に大きな危険を感じていた。
「よ、陽輔、他に道はないのか?」
「ここをまっすぐ行けばすぐなんだ」
「な、ならお前は行けよ。俺は進みたくない」
「お、俺だって進みたくないさ。あれ何してるんだ?」
 男は項垂れていた頭を上げた。目は虚ろで表情に力はない。頬は痩せこけていて亡者と呼ぶに相応しい装いだった。
「エイベットとかいう人じゃないか?」
「エイベット?」
「ほら、フローゼの部屋から出てきてブツブツと危ない事を呟いていた人だよ」
「あんな人だったか? もう少ししっかりした感じだったけど」
「そうだけど、忙しくて疲れてんのかな?」
「走り抜ければいけるかもな。あんな感じならさ」
「行ける?」
「行けるだろ」
 遠くからエイベットの様子を窺っていた二人はチャンスを探していた。すると、陽が沈んで廊下の中に光が差し込まなくなった。それまでエイベットの頭部を照らしていたオレンジ色の明るい光がなくなるとエイベットは悲しそうに窓に歩み寄っていった。
 足取りは不確かで今にも倒れてしまいそうだった。重い靴を履くのが好きな彼の足音は大きな音を鳴らす。足に力がないためにいつもよりひどい音を鳴らしている。手でカーテンを掻きむしるとはぎ取ってしまった。姿を現した窓に取りすがるようにして外を見ると彼は懇願し始めた。
「ああ、お願いだ。陽を見せてくれ。もう嫌だ。もう嫌なんだ。あの光を見たくない。仄かに光るあれは私を狂わせるんだ! 助けてくれ!」
 陽輔と幹由は最初、外に夢中になって気狂いの男の背後を静かに通ろうと無言で目を合わせると一つだけ頷いて確かめ合った。だが、すぐにもそれを中止した。エイベットが持っていたカーテンを噛みだして頭を犬のように振り回したからだった。狂気の沙汰としか思えなかった。それで二人はこれ以上ないような恐ろしさを覚えて立ち止まった。
 陽輔は狂気に振り回されている男を見た。幹由は後ろを振り返って後方に兵士がいない事を確かめた。逃げる準備をしている。
 噛み切れないカーテンをエイベットは悔しそうに左右に頭を振りながら千切ってしまおうとしている。下の歯に引っかけて両腕で下方に引っ張っていた。首の筋が浮かんでいた。耳の横から首元に斜めに走る筋はピンと弾くと切れてしまいそうなほど弱々しい。
 口の端から漏れた涎には血が混じっていて気色悪い色になっている。陽輔はそれを見た時に初めて目をそらした。幹由が袖を引っ張るのでようやく逃げる事を思いついてゆっくりと後ずさった。
 くるっと体を回して元の道へと戻ろうとするとぶちぶちという音が聞こえて来た。男の筋が切れた音かもしれないと陽輔は思って振り返るとエイベットは顎を血で濡らしながら千切れたカーテンをその自慢の犬歯で噛んでいる。
一度千切れたカーテンは脆かった。エイベットは喜んでいる。獣の咆哮が突如響いた。陽輔と幹由はすぐそばから放たれた大声に鼓膜を貫かれた。反射的に体を折り曲げて耳を塞いだ。大気を伝わる振動が大きな衝撃となって二人を叩いた。
 魂からの咆哮を終えたエイベットはぐらりと体を揺らすと背が徐々に丸まっていき、ゾワゾワと全身にかゆみを感じて激しく爪で掻き始めた。いつの間にか伸びていた長く鋭い黒い爪が彼の着ていた服を斬り刻んでいく。
 明らかに体が大きくなっている。部屋の前で落ち込んでいた時には幹由よりも少し背が低い程度だったのが今では見上げなければならなかった。腕と足は異様に太くなったのに身の方は細っていく。服がただの刻まれた布に変わって廊下の絨毯の上に落ちる頃にはエイベットの体には真っ黒の体毛が生えそろっていた。
「よく、見える。幼い頃の様だ。あの時は山の稜線や海の水平線と空の境目を見る事が容易だった。見えなかったものが見える。これは幸福な事だったんだ」
 エイベットはとても低い声で窓の外を見ながら呟いた。頭部は狼のように変わっている。長い牙とひくひくと動く鼻、辺りを警戒している耳が人間の物とは変わっていた。
 陽輔と幹由は目の前で起こった変身を見て未だに何が起こったのか信じられない様子で立ち尽くしていた。
「まずはあの小僧からだ。あいつの肉がどんな味なのかを見てやるとしよう」
 するとエイベットは自身が凭れていた扉をめがけて突進していった。だっと駆け出すとほぼ同時に扉に肩から衝突すると扉は周りの壁ごと破壊されてしまった。塵埃が舞うと廊下を薄く覆ってしまった。部屋の中からは阿鼻叫喚が聞こえてくる。叫び声、懇願、叩きつけられる音、潰される音、貪り、噛み砕かれる音が聞こえて来た。
「よ、陽輔。今のうちに………」
 幹由は袖を引っ張った。後ろへと退こうとしているのだろう。だが、そうするわけにはいかない。陽輔には分かっていた。こいつが獣なのだ。あの一団はこれをフローゼの元へと連れて行こうとしているのだ。
 陽輔は部屋の中を見なければ平気だと覚悟を決めると幹由の腕をグッと掴んだ。幹由は驚いて袖から手を離すと駆け出していく陽輔の背を見た。
 本来ならば幹由は自分が考えたように後方へと退いて身の安全の確保を図るだろう。だが、陽輔の咄嗟の判断と力強い覚悟を受け取って自分も駆け出していた。
 部屋の中で暴れ続けているエイベットはその中に居たベルストとその部下の三名の命を絶ってしまった。夥しい血と肉片が部屋中にばら撒かれると走っていく足音を感知した。誰かにこの犯行を見られたかもしれない。こう思った彼だったがすぐに言葉にして言い直した。
「犯行とは可笑しいな。これは食事だ。食物連鎖だ。罪であるはずがない」
 ベルストの腕を噛み砕いて咀嚼した。そして再び咆哮を挙げた。彼の完全な勝利だったからだ。耳はぴくぴくと音に反応して遠ざかっていく足音が人数と距離を教えてくれていた。
 エイベットは次の標的の顔を思い浮かべて勢いをつけると走り去っていく音の方を向いた。ベルストの部屋の横の壁を突き破ってずんずんと進んでいった。激しい音で彼は教えているのだ。脅威が迫っている事を。

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