ある少年が見た陳腐で滑稽な幻想

第9章

 陽輔は慎重になってタンジーを探した。先ほどのように微かな音でもバレてしまう事を恐れていた。だが、これで分かった事もあった。この隠し通路の存在はほとんどの者が知らない事が分かったのだ。それだけでもまだ陽輔にとってこの場所に身を隠すだけの理由はあった。出入口は二つある事を彼は知っている。
 いくらか離れた場所の部屋を覗き見ようと石を外すと再び部屋の中の声が聞こえ始めた。灯りが漏れてきてももう単純に安心擦る事は出来なくなっていた。
「隠し通路だなんて馬鹿げている。そんなものの存在など聞いた事があるか?」
「いや、無いな」
「城内はその話で持ちきりだな」
「だが、侵入者の存在を感じたという話だぞ」
「だとするとその侵入者は我々よりもこの城の構造に精通している事になるな」
「危険だな。警戒するに越したことはないだろう。フローゼ様にも報告がいったらしい」
「司書たちが大急ぎで文献を漁っているそうだ。なんでも隠し通路の存在を記している文献がないかと探す命が下ったらしい」
「俺たちにも影響がなければいいがな」
「きっと、あるさ。何が起こるか分からないからな。あのタンジー・イングラスが側近を外されたんだ。今では部屋に閉じこもっているらしいぞ。仲たがいだなんて聞いた事が無い」
「確かにな、どうなるか分からない。フローゼ様も気が立っているのだろう。触らぬ神にたたりなしと言うがそうも言ってられんか」
 陽輔はすぐに石を閉じた。必要な情報は十分に手に入れた。タンジーは部屋にいる。そしてあの組織の一団は全てを陽輔たちに被せようとしている。隠し通路の存在を教えたのだ。
 タンジーの部屋を知らない陽輔はまた確認しなければならない事に不安を覚えたがそうするしか方法はなかった。部屋にいるのなら確認さえできれば見つかるだろう。もっともタンジーの部屋にその穴が開いていればの話だったが。
 タンジーの部屋がどの辺りなのかは凡そだが想像できていた陽輔は早速その通りに動き始めた。彼女がフローゼの部屋を出て肩を落としながら歩いて行った方向にあると考えていた。
 二階の部屋の中ほどにあるだろうと定めて探していると四つ目の部屋を覗き込んだ時に机に突っ伏しているタンジーの背中を見つけた。彼女は泣いていた。鼻をすする音が壁越しに陽輔の耳に届いた。その弱々しい姿を見て放っておけなくなった陽輔はすぐに声をかけた。
「タンジー、タンジー・イングラス!」
 慰めるつもりはないはずだったのに陽輔は彼女が泣き腫らした目を向けると壁を取り払って傍に近寄りたい衝動に襲われた。
 虚を突かれた表情のタンジーは部屋の中を見回した。
「だ、誰?」
「俺だよ。陽輔だ!」
「よ、陽輔?」
「ほら、幹由と一緒にいた男だって。黒い服を着てた奴だよ。侵入者と思われてる片方だ!」
「ど、どこから話をしてるんだ?」
「隠し通路だ。ここにそれがあるんだ。頼む、話を聞いてくれ」
「出てきなさい、すぐに!」
「無理だ。いや、出来るなら俺もそうしたい。けれど出来ない」
「出来ない? 疚しい事があるからだ!」
「そんな事はない! 俺たちは事故でやって来た。その上に濡れ衣を着せられようとしている!」
「なら、出てきて弁明しなさいよ! 私は君たちを信じた。高等な教育を受け、武器など持った事が無いような身体つき、少年らしい振る舞いを見たから。けれど、もうこれ以上は出来ない。失ったものが大きすぎる」
「信じてくれ、そのままに!」
 壁で隔てられたままの訴えは互いに響かなかった。陽輔は大声で叫んでいる。その声が届いているのか不安になった。壁を取り去ってしまいたいとどれほど願っているだろう。もどかしい気持ちでいっぱいになりながら保身を考えている自分を呪った。
 タンジーは乾き始めていた涙の跡を再び濡らしていた。
「クラクラしてきた。わ、私は頭がおかしくなったのか? 幻聴か?」
「いや、現実だ! 俺はここにいる! この壁の向こうにいる。俺も出来ればこの壁を取り払って話がしたい。けれど、もうそういうわけにはいかなくなった。俺たちはフローゼの暗殺なんて企てていない。これだけは訴えたかった。他にいる。そんな計画を立てている奴が!」
「誰だ、それは」
「名前は分からない。けれど、この城の中の兵士だ。俺がアールストンの工房から出た時に取り囲んだ女がいただろう。そいつが獣を放つと言ってた。あの女を生かしてはおけないって。あんたが止めるしかない!」
「獣を放つ?」
「そうだよ、獣だと言ってた。それだけは確かだ! 奴らは俺たちに何もかもを押し付ける気だ」
「私はフローゼ様の安全を守るのが役目だ。獣か、探してみよう。君を取り囲んでいた一団もね」
「ああ、やってくれ。そうしてくれ。俺は幹由を助けに行く」
「私に言っていいのか? 警告するかもしれないぞ」
「別にいいさ。その時はその時だから」
 陽輔が呟くとタンジーは返事をしなかった。沈黙が訪れて二人は行動しようとしなかった。
「じゃあ、俺は急ぐから」
 陽輔はそれだけ言い残すと覗き穴を静かに塞いだ。漏れる灯りが薄れていき、暗闇に包まれたがそれももう長い時間ではない事を予感した。全身に明るい陽を浴びる時が近づいている。そして幹由を救うべく走り出した。彼は出口へと向かった。
 部屋の中に残されたタンジーは涙を拭った。ずいぶん長い間、この部屋で涙を流していたように思っていた。だが、もうそんな事をしている暇はない。顔を紅くしたまま装備を身に着けた。そして彼女も駆け出すように部屋を出て行った。

 隠し通路の出口の扉が閉じられていくのを陽輔は見ていた。奪った兵士の装備を付けて変装すると彼は万全の準備をした気になって書庫を出て行った。
 幹由のいるであろう牢獄までは苦も無くやって来る事が出来た。途中、彼は多くの会話や人の顔を眺めては歩いてやって来た。タンジーは警告していないだろうと思っていた。そしてその通りだった。
 牢獄は南の塔の上にある。陽輔が入れられている時には二人の他に囚人はいなかった。今は幹由一人だけだろう。
 陽輔は牢番の部屋の前で立ち止まると静かに扉を開けた。牢番は開いてゆく扉に気付いていない。机に片肘をついて本を読んでいる男の背後で剣の鞘を振りかぶると思い切り脳天めがけて振り下ろした。
 帽子をかぶった牢番の後頭部は頭蓋が傷ついたのか鞘が壊れたのか分からない音が大きく鳴った。そのままどさりと本の上に倒れてしまった牢番を覗き見ると息はあるようである。陽輔はいくらかホッとして鍵を探した。
 鍵は牢へと続く柱に打ち付けられている釘にかかっていた。輪にパッと見ただけでは数を把握できないほどの小さな鍵が通されている。陽輔はそれを掴むと牢番を打った時に机から落ちてしまった筐学の灯りを持って幹由の牢へと向かった。
 牢にいる幹由は壁にもたれてこの一部始終を耳だけで窺っていた。牢番が打たれる音、何かが落ちる音を聞き、ただ事ではないと思った。それでも身を起こしてそちらを見る事はしなかった。
 誰かがやって来る足音が聞こえてくる。がしゃがしゃと激しい音がする。幹由は陽輔だろうと直感で分かった。そして彼は壁にもたれたまま陽輔がどんな要件でやって来るのかをただ静かに待った。
 陽輔は幹由が一緒に入れられている牢に再び入れられているのが分かった。それは六つ目の牢で灯りを持って改めて見てみると薄汚い牢獄である事が分かった。一刻も早く幹由をそこから出してやらなければならない。
 その牢の前までやって来ると陽輔は驚いてしまった。幹由は自分がやって来た事が最初から分かっていた風に目を上げてこちらを見ただけだったのだ。彼はてっきり助けを待っているものと思って彼がやって来た事を喜ぶだろうと考えていた。だが、どうして喜ばないのだろうか。
「み、幹由、助けに来たぞ。ここから出してやる!」
 陽輔は壁から離れようとしない幹由に呼びかけた。
「助けなんていらない」
「何だって?」
「助けなんていらないって言ったんだ!」
「どうしてさ?」
「俺はここに残る。陽輔はどうしてあの部屋を出て行ったんだ?」
「今となっちゃもう分からん。けど、たぶん自分なりに戻る方法を考えようとしてたんだ」
「俺は戻るにもこっちの人の協力が必要だと思ってる。だから俺はあの部屋に残って協力してた。自分たちにも協力してもらえるように。けど、事情が変わったとかでこうしてまた牢に入れられてる。きっと今回も一時的なものだろう。すぐに出してもらえるに違いない。俺はここに残ってあの人たちに協力する。陽輔も無駄な反抗は止めて協力的になるべきだ」
「牢に入る事が協力的だなんて到底思えない。幹由、今の事情が変わったってのは本当に重要なんだ。危ないんだ、俺たちだって身の危険にさらされてるんだぞ」
「俺はここから出ない」
「強情な奴だな。今がチャンスなんだ。どんなものを掴むにしてもな」
 陽輔は言いながら幹由の牢の錠と合う鍵を束の中から探した。やっと合う鍵を見つけると勢いよく格子扉を開けた。それでも幹由は起き上がらない。陽輔はじれったくなった。
「この分からず屋!」
「出て行ってくれ!」
「馬鹿野郎。このままここに居たって変わらないぞ。幹由は今、起ってる事が分かってない」
「事件が起こった事は知ってる。それで俺たちが出て行ったところで更に混乱するだけだ。余計な誤解を招かないようにここに居た方が得策だ。早くその似合わない甲冑を脱いでここに入るんだ」
「絶対に入らないぞ、俺は。外に出る。その方がいい。幹由、お前も来なくちゃダメだ」
「好きにすればいいだろ。お前は出ると決めたんだ。俺は出ないと決めた。そっちの方が正しいと信じてる」
「幹由、俺たちは濡れ衣を着せられようとしてるんだ。俺は実際にその計画を話してる連中からこの甲冑を奪った。奴らは組織立って動いてる。一筋縄じゃ行かない。俺たちも協力しよう。でないと助かる命も助からない。フローゼが命を狙われてる。事件ってのはそれなんだ。暗殺だって。その第一容疑者が俺たちなんだ。きっとこのまま事が進むと俺たちが疑われたままだ。このままじゃダメだ、間違ってる。やってもいない事をやったと言われて罰を受けるなんて我慢できない」
「さっきも言っただろ。そうして事態が混乱してるのはお前が先に部屋を一人で出て行動したからだ。それが無ければこうしていなかったかもしれない。これ以上の混乱を避けるためにも動いちゃダメなんだよ」
「俺は間違ってない。俺はこの事件を企てた犯人を知ってる。タンジーにも教えた。どんな奴らがそれをしてるのか。協力的になると言ってるなら今こそなるべきだ!」
 陽輔は必死に訴えた。幹由はいつの間にか立ち上がっていた。
「俺に協力してくれ、幹由!」
 陽輔は叫ぶように幹由に頼んでいた。
 幹由は信じられないような、驚いた顔をして陽輔を見た。何か大きな衝撃に打ちのめされて麻痺したように牢の中で立っている。
 陽輔はそんな幹由を見ている。穏やかな眼差しだった。
「分かった」
 ただ一言だけ幹由は口を開いた。二人にはそれだけで十分だった。
 歩いて牢から出た幹由は陽輔の肩に手を当てて押した。一歩下がった陽輔の隣に立つと甲冑の胸当てをゴンと拳で叩いて笑った。
「本当に似合わないから脱げよ。これからはいらないだろ。動きは軽い方がいい」
「そうだな。脱ぐか、そうするか」
 陽輔は笑いながら甲冑を脱いだ。幹由が入れられていた牢にそれを投げ込むと大きな音を立てて転がった。暗い牢の中で持っていた光を反射させる甲冑は鈍く光っていた。
 二人は牢番の部屋を通って塔を下りて行った。
「あれ、陽輔がやったのか?」
「そう、俺がやった。気絶してるだけだけだから大丈夫だよ」
「乱暴な奴だなあ」
 陽輔ははにかんだ笑みを見せて歩いていた。暗い階段の中を陽気に下りていく二人はその先で何が待っているか知らない。
「それで、何が起こったのか教えてくれよ」
「そうだな」
 陽輔は階段を下り切るまでにかいつまんで自分が見てきて知った事を幹由に教えた。
「大変な事になってるな」
「だろ?」
 話をする間、陽輔は楽しそうだった。幹由は静かに陽輔の話を聞いていた。
「大変だったんだぞ。それで牢に入れられてると命は無いかもしれないと考えて助けに来たのにさ、お前ってやつは」
「仕方がないだろ。あの状況ではあれが最善だと思ったんだよ」
 夕暮れで傾いた陽が窓から廊下に差し込んでいた。すぐにも夜がやって来る。長い廊下を見ると前途は多難に思えた。だが、二人なら大丈夫だろう。そんな予感が糸の様に二人を繋げていた。


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