春の風と希死念慮

自ら命を絶ってしまった子に、なんて声をかければよかっただろうか。
彼女の絶望の大きさについて、僕は何もわからない。どのような性質のものであったかも想像することしかできない。

あるいは言葉ではなく、焼肉と温泉とフカフカのベッドなのか。「生きてりゃいいことある」って、そんな言葉よりは実効性が高いかもしれない。

けれども、突発的にやってくる不安感や焦燥感、希死念慮は、ぼんやりした不安というのに近いもので、上記のものは効果がない気がする。僕の場合は、このまま結婚も子供もできず、うすぼんやりした人生が延々と続いていくことに対する不安感で、なにもかも自分だけがこの世で取り残されて、どこにもたどり着けないという絶望感だ。

これは夏休みの宿題を終えていないまま、8月31日を迎えてしまうことの不安感に近い。「どっか遊びいこーぜ」と出掛けていって解消されるものではない。むしろ遊んでいる最中も不安感は増大していく。遊んでいるから増大するのかもしれない。

仕事をしている最中も、彼女のことを思った。同じように絶望を抱えて、自分一人で抱えきれなくなってしまったとき、「逃げろ」という言葉はどこまで有効だろうか。逃げるにしろ、立ち向かうにしろ、メッセージというのは、結局その場限りのものだ。一緒に悩んだり、問題解決のために努力したり、そばにいてくれる存在というのがどうしても必要なのではないか。

自分は一人ではなく、同じような悩みを抱えている人たちがいるということ。その人達の存在をたしかに感じられて、なにか目標を持って一緒に歩くことができたら、僕らの絶望感はもう少しましになるかもしれない。

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