疎なコミュニケーション

時間と空間を共有する「密なコミュニケーション」と、場所も時間も共有しない「疎なコミュニケーション」というのを考えてみる。

密なコミュニケーションは、例えばライブハウスや井戸端会議のように人が一箇所に集まって、リアルタイムに会話が進行する。

一方で、疎なコミュニケーションはそれぞれがバラバラの場所にいて、作品作りをしているようなイメージだ。これは吉本隆明的に言えば、意味ではなく価値に傾くコミュニケーションだ。

「コロナ禍で、場所を共有しないのはわかる。しかし、時間も共有しないのはなぜか?」

それは、このコミュニケーションがロングテール的だからだ。誰もが興味を持つような、人気のある話題について話すのではなく、ほぼ需要はないが、一部にものすごく好く人がいるというような話題だ。

会話が成立するのはどういうときか考えてみるといい。まず、同じ場所にいるということ。そして共通の話題があるということ。コロナで同じ場所にいるということが難しくなったとき、他の誰かじゃなくて、その人と話す必然性がなくなった。そうすると、場所ではなく同じ興味関心を持つということが最優先になる。しかも、よりニッチにピンポイントに自分が興味のある話題だ。

話題優先になると時間を共有するのが難しい、同じ興味を持つ人が同じタイムゾーンにいるとは限らないのだ。レスポンスの間隔は大きくなる。すると、返答の形も変わってくる。ものづくりのように一つの作品に対する返答は、また別の作品を作り出すことになる。このような価値増殖型のコミュニケーションはおもしろい。

疎なコミュニケーションはバズりとは無縁だ。けれども、その価値がわかる数人が集まることは、バズりよりもいいかもしれない。ネット配信される曲の98%は、少なくとも3ヶ月に1曲は売れるように、それぞれのニッチがそれぞれのニッチと交わる。これはバズりというより、たわいないおしゃべりをするようなもので、急に有名人になれたりしないが、友人が一人できるかもしれない。そういうコミュニケーションが尊いのだ。

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