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短編小説 『格闘』



「何やってんだ、俺は…」

ジムからの帰り道、根津は肩を落とし今日もそう呟いた。
このところはずっとこんな調子で、もはやその言葉の判子を作った方が早いのではないかという程だった。
そう、あの男を前にまた何もできなかったのだ。

日中は外を走り回り、得意先に頭を下げる平々凡々の営業マン。
元々口下手な根津の成績はなかなか伸びず、何か自分を奮い立たせるものはないかと考えていた。
そんな中、会社帰りにたまたま目の前を通りかかったのが根津が今通っているジムである。
根津は立ち止まると、考えるよりも先にその門を叩いていた。

学生時代にアマレスで鍛えた体は、社会人の通過儀礼である上司との付き合いのせいで現役時代のものと比べると見る影もなくなっていた。
元々は今の自分からの脱却、即ち現役の頃の体を取り戻すことが目的でそのジムに通い始めた。
しかし、いつの間にかその目的はあの男に打ち勝つことへと変わっていた。

初めてジムを訪れた時のことを、根津は今でもハッキリと覚えている。

仕事で溜まった鬱憤を晴らすかのように、トレーニングに没頭した。
体に溜まったガスを抜くかのように、汗を流した。
乳酸が身体中を駆け巡るたび、不思議と顔がニヤついているのがわかった。
傍から見たら、ただのドMの変態である。

しかし、その時の根津にそんなことは関係なかった。
滴り落ちた汗をモップで拭き取ると、自分の心の中にはびこるモヤみたいなものも取り払われるような気持ちになった。
そして、次の瞬間には「ハハッ!」とハッキリと声を出して笑っている自分に気づいた。
無論、ジムにい全員が異色の新人に白い目を向けていた。
客観的に見て、かなり危ない男だ。
しかしながら、そんな周囲の目線もその時の根津には関係なかった。
むしろ、忘れかけていた興奮にその身が包まれていくのが心地良かった。
俺は今ここに確かに立っているんだ、そう強く思えた。
そして、充実感に満たされたまま、そろそろトレーニングを切り上げようとしたその時だった。

ある男と目が合った。
男は肩の関節を鳴らしながら、その視線を真っ直ぐと根津に向けていた。
その顔つきは「一丁揉んでやりましょうか?」と言わんばかりで、根津の耳にも実際にそう聞こえたような気がした。

思えば、その男はその前に違う人間を相手にしている最中から、初めてジムに来た人間とは思えない根津の動きに目を留めていた。
ずっとその動向を探っていたのだ。
それに何気なく気づいていた根津は「それならお相手してもらいましょうか」と心の中で言葉を発していた。
そして、次の刹那にはその男の前に立ち「お願いします」と口走っていた。
近くで見る男は大木とさして変わらなかった。
その太い腕にはボッコリと隆起した血管が携えられ、何かしら格闘技の腕に覚えがあることはアマレス経験者の根津の目から見れば明らかだった。

男の仕事は速かった。
次の瞬間、根津はマットに横たえられていた。
すぐさま覆い被さられ、男の腕が振り下ろされる。

ズン!

重い。
その体格から余程の力だろうと覚悟はあったが、想像を遥かに超えていた。

「これはマズい。早く返さねば」

立ち上がりで軌道修正ができなければ、終始向こうのペースになってしまう。
そうなってしまったら、自分の体が痛めつけられるだけだと経験的にわかっていた。
しかし、そこで根津はほんの一瞬だけ躊躇してしまった。

それが最後、決定的なタイミングを逃した根津に男の次の一手が仕掛けられる。

ズン!

やはり、重い。
そして、二手、三手、四手……。
手を緩めない男に対し、苦痛で歪んだその表情を読み取られぬよう隠し通すことで精一杯だった。
それが根津にできる唯一の悪あがきだった。

そこからの時間は永遠に続く地獄のようだった。

最後に肩をポンと叩き、男は「お疲れ様でした」と余裕綽々の笑顔を向けた。
根津はしばらくそこから立ち上がれなかった。
幾ばくか前に取り戻していたはずの自信は、ジムの照明に吸い込まれたかのように消えていた。
その代わりに沸き出た失望感を抱きながら、ただただマットにひれ伏すだけだった。
ジムを後にした根津は男に痛めつけられた部分が疼くのと同時に、何もできなかった自分を悔やみ家路についた。

それからというもの、ジムに通うたび根津はその男と相対した。
しかし、示し合わせたように返り討ちに遭うだけで、毎度男の強力な一打に根津はただただ黙り込むだけだった。

相手の動きはわかっている。
対峙する前に思っていた通りに自分が動けば男の強打を回避し、体が悲鳴を上げずに済むのだ。
だが、根津は一度としてそのハードルを越えられなかった。

わざわざその男を相手に指名しなければいいのだと考えたこともあったが、そんな逃げるような真似だけはしたくなかった。
どうしても、その男に勝ちたかった。
そして、何よりも男を前にすると怖じ気づく自分自身に打ち勝ちたかった。
そうすれば苦手な営業の仕事でも次々と口が開き、商談なんていくらでも取れると信じた。
もう少しだけ勇気を振り絞ることができたら、その未来の扉は開くのだと……。

しかし、今日もまた根津はあの男の前に屈した。

大きな後悔を引き連れ帰路につく根津はふと立ち止まり、暗くなった空に向かって大きく叫んだ。

「チクショーッ!!」

カラスがそれを無視した。

「何やってんだ、俺は…」

そして今日もまた口下手な自分を責めた。

「なんで、“もうちょっと弱くお願いします”こんなたった一言をただの整体師に言えないんだよ…」

トボトボと歩き始めた根津の体にまた揉み返しの痛みが走った。


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