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愛がこだわりを超えた日

 その日、3歳のAくんは外帽子を家に忘れてきてしまいました。
同じクラスのお友だちは、みな自分の名前が書かれたオレンジ色の帽子をかぶり、2階のお教室から1階の靴箱めざし、次々と小走りでわれ先にと降りてゆきます。そんななか、お教室に先生とふたり、残っている男の子はAくんです。顔をくしゃくしゃにしながら、床をどんどんと踏み鳴らし、<イヤだ!><なんで!>と繰り返しながら、先生に訴えかけています。

 先生はAくんに予備の外帽子を貸してあげるから、それをかぶってお外に行こうね、といいながら棚を探してみましたが、あいにくいつものオレンジ帽は貸し出し中で、見つけることができませんでした。

「ごめんね。嫌だろうけど、今日はとっても暑いから、代わりにこの赤い帽子をかぶっていってね」

そういいながら先生はAくんの頭に赤い帽子を乗せましたが、Aくんは間髪入れずそれを手で振り払い、きっぱり拒絶の意思を示します。ぽーんと床に飛んでいった赤帽を拾い上げながら、もう一度先生は申し訳なさそうにいいます。

「ごめんね。オレンジ帽は無いの。でもね、お外で遊ぶんだったら、お帽子はちゃんとかぶらないと、お熱出ちゃうとたいへんだから」

と説得にかかります。それでもAくんは頑として譲りません。
先生は赤色のほかに、青やピンク、黄緑色の帽子を出してみせたり、他のクラスの先生たちにも聞いて回るのですが、やっぱりオレンジ帽はみつかりません。
だんだんと大好きな外に遊びに行くに行けない状況に、Aくんのイラ立ちも強く激しくなってきました。
カウンセラーは、先生にたずねます。

<Aくんにとって、同じクラスにだれか好きなお友だちとか、あるいは別のクラスのひとつ上のお兄さんとかお姉さんとかでもいいのですが、だれかひとりでも好きなお友だちがいるといいんですけどね。その好きな子が今かぶっている帽子と同じ色の帽子なら、もしかしたら喜んで真似してかぶってくれるかもしれないです>

先生は困った顔で答えます。

「Aくんは自分の好きな遊びをとことんやりたいタイプで、今のところ、友だちと関わることを自分からあまりしたがらないんです。特定のお友だちも、まだ見つかっていないと思います。それでさみしいという感じもなさそうで、むしろ邪魔されたくないという風にみえます。」

しぶしぶ階段を下りたAくんは、1階の靴箱の前で床にどっかりと座り込み、不機嫌そうな納得のいかない浮かない顔をしています。ちょうどそのとき、ばらばらと数人の子どもたちと先生が、階段をにぎやかに勢いよく降りて来ました。その中にいた若い男の先生がAくんの姿を見つけて笑顔で声をかけます。

「どうした?Aくん。早くお外に遊びに行こうよ!」

そして、目の前の事情を察すると、もうひとつの赤い帽子を自分の頭の上にちょこんと載せました。そして一言。

「あ、先生の帽子とAくんの帽子、おんなじ色だね~」

Aくんは若い先生の小さすぎて落ちそうになっている赤帽と、自分の首元にひっかかっている赤帽を一瞬見比べました。すると、急にAくんは勢いよく立ち上がり、すんなり帽子をかぶったかと思うと、笑顔で手招きしながら足踏みしている男の先生の後ろを、はじけるような笑顔で全速力で追いかけていき、あっという間に視界から消えてしまいました。

ほんの一瞬の転回劇にあっけにとられたカウンセラーは、答えを求めて担任の先生を振り返りました。

「あの男の先生は、Aくんがこの園に入って間もないころ、乳児さんの時からずっと関わってくれた先生なんです。まだ園に慣れないころから、あの先生のお膝に乗ったり、世話してもらったりしていました。だから、Aくんにとっては、初めての先生かもしれませんね。Aくんにとっては、先生というより、面倒見のいい年の離れた大好きなお兄さん、という感覚かもしれませんけど。乳児さんの時からの結びつきには、私たち他の先生ではかなわないところがいまだにあるのでしょうね~」

そんな風に話してくれました。

乳幼児期に育まれると言われている人に対する愛着と信頼は、身内、つまり実の親子関係をめぐって語られることが多い。けれども、この日のAくんと若い男の先生のエピソードを見聞きしてからは、カウンセラーとしてこれまでとは異なる視点を持つようになった。
それはつまり、人への愛着と信頼は、保育士など日々密接に子どもたちと関わる”他人との関わり”を通しても、その形成にかなり寄与しうるのではないのかということだ。
 今日の子育ては、早期からの長時間保育がめずらしくはなくなった。実の親子水入らずで過ごす時間は、ますます減少する方向に向かっている。保育の現場は家庭の延長と位置づけられ、子どもの成長を支える場として、ますますその役割の重要性は増している。
 日本の子育ての歴史を振り返れば、欧米の個人主義的な考え方や子育て・教育観が持ち込まれる明治以前・江戸時代までは、生みの両親以外の多くの大人たちや、いくつか年が大きいきょうだいたち、近所のおじさんおばさんなど、立場の異なる大勢の大人や子どもが子育てに参加していたときく。地域の子は地域で育てよう、という取り組み方は、むしろ日本の伝統的な子育て形態であり、日本人の本来のメンタリティを構成しているのではないかとも思える。
 隣近所といったごく狭いプライベートな生活空間において、子育てが営まれていた昔とは、事情は異なるだろう。しかしながら、あらためて保育園・こども園・幼稚園などの地域コミュニティが、乳幼児期の子どもの発達や成長を家庭になり代わって支えていくという役割をますます担うようになっていると思えてならない。
 公私混在、全員参加の子育ての取り組みが、新しい時代に期待されつつあるような気がしてならない。家庭の”代わり”でも、親”代わり”でもなく、専門性に裏付けられた保育・幼児教育だからこそできること、独自性や価値について再発見再認識し、社会認知を得るべきだと思う。カウンセラーの視点からも、保育・教育現場の先生方を今後も引き続き後押ししていきたい。

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