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徳川慶喜と静岡市


こんばんは、徳川家康です。

もとい、静岡市まとめの中の人です。

NHKの大河ドラマ『青天を衝け』が人気ですね。
個人的にも久しぶりにハマった大河ドラマで、毎週楽しみに見ています。

『青天を衝け』の主人公はもちろん渋沢栄一なのですが、草なぎ剛演じる徳川慶喜ももう一人の主人公と言って良いくらい重要な人物として丁寧に描かれており、私が青天を衝けにハマった大きな理由はこの徳川慶喜にあります。

これまで徳川慶喜は、徳川幕府を滅亡させた張本人であり、「封建時代最後の君主」という、どちらかと言えばネガティブなイメージを持たれていたように思います。

ところがこのドラマにおける徳川慶喜はそんなイメージとは無縁の、「開明的」で、「有能」で、「決断力に富み」、「懐が深い」人物として描かれています。

一方で、信頼する部下が次々に暗殺され、しかもそれは身内による犯行というやるせなさ、他に頼れる人がいない「孤独感」や「悲壮感」がひしひしと伝わってきます。

実際、当時の徳川幕府に現実的に慶喜以上に優秀な人材はおらず、それだけ優秀な慶喜をもってしても時代の流れに抗え無かった。「どうしようも無かった」というのが真実に近いのでは無いかと思っています。

幕末の歴史について、新たな視点を与えてくれた『青天を衝け』に深く感謝しています。

本記事では、そんな孤高の将軍徳川慶喜と静岡市の深い関係について書きたいと思います。

静岡市 ~徳川幕府始まりと終わりの街~

全国的にはあまり知られていないと思いますが、静岡市は徳川家ととても関係の深い都市です。

まず、徳川幕府の始祖である徳川家康は、その生涯で最も長い時間を静岡市(駿府)で過ごしています。特に青春時代(7歳~18歳)を静岡市(駿府)で過ごした事は間違いなく家康に大きな影響を与えたことでしょう。

征夷大将軍を秀忠に譲った後、死ぬまで(65歳~74歳)静岡市(駿府)を本拠地としたことは、地政学的な理由だけでは無く、青春時代を過ごした想い出深い地で過ごしたいという個人的な想いもあったのでは無いかと思います。

征夷大将軍を譲ったとは言え実質的な権力は家康にあり、政治の中心は静岡市(駿府)にありました。つまり、徳川幕府260年の基盤は静岡市で作られたと言っても過言ではありません。

そして、本記事の本題である徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜も静岡市で長年(約30年)過ごしているのです。

まさに静岡市は徳川幕府260年の歴史の始まりと終わりの街と言えるでしょう。

宝台院(+教覚寺)

江戸城無血開城から、水戸での謹慎を経て慶喜が静岡市で最初に過ごしたのが『宝台院』というお寺です。

静岡駅から徒歩8分というアクセスの良い場所にあります。


宝台院は、二代将軍徳川秀忠の生母西郷局の菩提寺でもあります。

おそらく、そのように徳川家と縁の深い事もあって、この場所が静岡市における謹慎の地に選ばれたのでしょう。

これだけでも静岡市と徳川家の縁の深さを感じますね。

(ちなみに筆者はこのお寺が経営していた幼稚園の出身です。どうでもいい)

慶喜はここで約1年ほど過ごします。

このとき、『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一も慶喜公に付き従って、静岡市で1年近くを過ごしています。

その時の渋沢の居住地が、宝台院から徒歩3分ほどの距離にある『教覚寺』というお寺です。

慶喜が信頼出来る数少ない人物である渋沢栄一が目と鼻の先にいたことは、慶喜にとってとても心強かったに違いありません。(ドラマでももしかしたらそのように描かれているかも知れませんね)

紺屋町御住居(現:浮月楼)

謹慎が解かれた後、慶喜公は静岡市葵区紺屋町にあった元代官屋敷に移ります。

この場所は、現在は「浮月楼」という料亭・結婚式場となっています。(静岡駅から徒歩3分とアクセス抜群です)

写真は公式サイトを見た方が遥かに良いので、是非そちらをご覧になってください。

この場所で慶喜は遊び倒します

鷹狩りをしたり写真撮影をしたり自転車を乗り回したり……悠々自適、趣味三昧の日々です。

この時、慶喜に付き従って多くの元幕臣も東京から静岡市に移住して来ましたが、彼らの多くは失業状態で貧困に喘いでいました。(筆者もこの時に東京から静岡市に来たバクシン!もとい幕臣の末裔です)

彼らの目にそんな慶喜の姿はよく映らなかったことでしょう。怒りを覚えるのが当然だと思います。

この点は、色々議論があると思いますが、私は慶喜は明治政府に疑念を持たれないように、驚異とならないように敢えて「バカ殿」を演じたのでは無いかと思っています。

『青天を衝け』で描かれているように、慶喜は実際はとても優秀な政治家です。そんな彼が自分の行動がもたらす結果がわからないわけはありません。

一度恭順すると決めたら徹底して恭順する。それが内乱を防ぐ道だと。そのための汚名を甘んじて受け入れると、慶喜は決断したのでは無いかと思います。

とは言え、そんな慶喜公の心の内など庶民には預かり知らぬこと。静岡市民にとってはただの多趣味なオジちゃんです。慶喜のことを親しみを込めて「ケイキさん」と呼んでいました。

今でも静岡市民にとっての慶喜像は、薩長を相手に丁々発止のやり取りをした凄腕の政治家では無く、遊び人の「ケイキさん」なのです。

西草深徳川慶喜屋敷

時代が進み、明治21年に東海道線が開通すると、慶喜は静岡駅から2kmほど離れた西草深に転居します。理由はうるさいからと言われています。

西草深は、駿府城公園にほど近い閑静な住宅地で、今でも静岡市の高級住宅街と知られる地域です。

残念ながら今ではこのようにミニ公園として碑石があるだけなので、あまりオススメは出来ませんが、近くには静岡浅間神社と駿府城公園があるため、散歩がてら寄ってみると良いかも知れません。

この地に移ってから東京に帰るまでの約10年間、慶喜は引き続き趣味三昧の日々を過ごします。

この頃には明治政府に睨まれるような事も無く、心から趣味を楽しめていたのでは無いでしょうか。

まとめ

以上、簡単ですが静岡市と徳川慶喜との関係について書いてみました。

今回は徳川慶喜に関わるものだけ紹介しましたが、静岡市は街中のあちこちに歴史が転がっているような非常に歴史深い街です。

コロナが落ち着いたら、『青天を衝け』で慶喜に興味を持った方、歴史好きな方は、是非静岡市を訪れてみてはいかがでしょうか?

(参考)

駿府まち巡りマップ


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