露店街

 観光客でにぎわう露店街のなかに、そこだけ蜘蛛の子を散らしたように空白がとりまくお店がいつまでも私の目を惹くので、ある時とうとう、仕方なさと多少の怖れとともにその店を訪れた。光沢のある黒い布の敷かれた小卓の上には、塵ひとつない。占い師かと思えば、石も札もどこにもない。国籍の判別もつかぬその店の主の仄暗い肌に浮かぶ、茶色がかった目の奥がただ静かにひかっている。


 「一体なんの真似です。この店は看板も品物も、なんにもないで」
 「ははは。貴方こそ何故、なにもない店なんかにお立ち寄りなさる」
 「気になりますよ。どうしたって」



 小卓の前に座る露天商は意味深な笑みを湛えた目で数秒私を見つめていたが、なにを思ったか白っぽい粗布に包まれた小ぶりな品物をどこからともなく取り出して、敷布の上にことりと置いた。


──では、折角のご縁ですから。貴方に是非これをお譲りしましょう。勿論、私の話をお聞きになった後で、これをお持ち帰りになるかどうかご判断いただいて構いません。きっと手に入れたいと思うに違いありませんがね。貴方にはこれがなにか、わかりますか。わからないでしょう。これはね、なんとも可愛げのある代物なんです。ええ。とっても可愛げがあって、この世にふたつとない代物です。小さな、やっと手のひらにのるくらいの大きさの、草をはむ動物たちの眠るささやかな箱庭と言ったらよいでしょうか。いえ、お医者にもう通わなくていいと言われて、陽に温められた花の咲く川べりを歌いながら帰るような午後でしょうか。なにも、美しいというのじゃないのです。たとえば高価な宝石じみたきらめかしさはありません。巧妙な細工が施してあるわけでも、稀少な素材が使われているわけでもない。可愛げというのは、そういうことなんです。つまりは初夏に埋めたミニトマトの苗が暑さにやられてひとつも実らず枯れようとしている夏の終わりに、たったひとつだけころんと実をむすんだ真っ赤なトマト。食感で表すなら柔らかで、甘すぎることもない。最近はマシュマロにも甘さより酸味のあるものがあるそうだよ。ふわふわとした爽やかさ、どちらと聞かれたら熱より温度、緑色より若草色、カプセルより粉薬、travelよりtrip、食事よりミール。ずっしり重たい陶器よりも空気に近い、紙粘土製の朝食皿。地球より月の重力感で、歩くより飛ぶにひとしい。もう名前も思い出せない少女の目の端にうすく滲む涙に映った小さな街の、小さな夕暮れ。ふれた途端に壊れてしまうほど繊細なものでも、うっかり力を込めたら粉微塵に崩れてしまうプレパラートでもなく、気を遣わなくてよろしい。かと言ってぞんざいに扱ったら、凹凸のないこれはつるりとすべって簡単にどこかへ隠れこんでしまって、もう二度と見つけられやしません。そんな感じの、可愛げのある代物が、まさに私の手の中に。どうです。ほしいでしょう。ここに紙とペンがひと組みあります。これにさらりと貴方のお名前を書いてくだされば結構。たったそれだけの所作で、この世にたったひとつの可愛らしい代物が手に入るのです。私の気が変わったらもう一生・・・と思ったのですが。やはり気が変わったようだ。私の気というものは、実にころころ変わるんでね。話し始めた頃は、当然貴方にこれをお譲りする気持ちでいたんですが、手放すのがどうにも惜しくなりました。これほど可愛げのあるものは、なかなか手に入るものじゃありませんから。詐欺ですと? 断じて違いますよ。貴方は話を聞いていただけで、名前の一筆も書かず、一文も支払ってはいません。第一、詐欺に可愛げなんかあるわけがない。ええ、ひよこ? 違うったら。そんなに気になりますか。そうですねえ、お見せしたい気持ちは山々なんですが、一度見られたらもう、これはそのひとのものになってしまうのです。たとえあなたが拒否したとしてもね。なに、心配はご無用。貴方には貴方にふさわしい、可愛らしい代物がきっと見つかります。それにはよく目を光らせておくことです。こういうのはね、自分で見つけるのが肝要ですから。それではどうもご機嫌よう──



 露天商はそそくさと荷物をまとめ、口を聞く暇もなくあっという間に姿を消してしまった。あとには布を剥がれた小卓だけが寂しげに佇むばかり。この卓にもいずれ次の商人が来て、ささやかな新しい商売を始めるのだろう。それからというもの、私は何度となくこの露店街を訪れている。どこか取り憑かれた人間、すなわち私は商人たちの間で少しばかりの噂が立ち、行方の知れぬ露天商を探して何度も通りを往復する、所在のない怪しい客として眉を顰められることさえあった。可愛げのある代物。世界各地から集められた、めずらしい品々を見せられても、それは私の求めるものではなかった。可愛げがなくてはならない。可愛げがなくては。そんな代物は見つからぬまま、一年経ち、二年が経ち、私に行き場のない憧れと焦燥を植えつけた商人のことを恨めしくも恋しくも苦々しくも思い出しつつ、訝る視線の合間を縫って、今日も彷徨い歩くのである。


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