【まとめ記事】銃乱射事件の歴史

近年、また銃規制のあり方が問われているが、それについて考えを進める前に歴史を振り返っておきたい。Wikipediaからこの材料を集めてみた。

1966年 テキサスタワー乱射事件

(Wikipedia)
1966年8月1日正午、元海兵隊員で、テキサス大学の大学院生であるチャールズ・ホイットマンがテキサス大学オースティン校本館時計塔にM1カービン銃、レミントンM700狙撃ライフル等の銃器、立て籠もりのための食料等を持ち込み、受付嬢や見学者を殺害した後に同時計塔展望台に立て籠もり、眼下の人を次々に撃ち始めた。
事件の一報を受けたオースティン警察が出動するも、90mもの高さを利用した射撃に歯が立たず、警察が地下水道からタワーに侵入してチャールズを射殺するまでの96分の間に警察官や一般市民など15名の犠牲者(犯人のチャールズを含まず。当時腎臓を撃たれて重い障害が残り、後に死亡した1名と、被害者の1人の胎内にいた胎児を含めて16名ないし17名とする場合もある)、31名の負傷者を出す等、2007年4月16日にバージニア工科大学銃乱射事件が起きるまで最悪の学校銃乱射事件となった。

1972年 テルアビブ空港銃乱射事件

(Wikipedia)
犯行を実行したのは、日本赤軍幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(当時25歳)の3名である。
フランスのパリ発ローマ経由のエールフランス機でロッド国際空港に着いた3人は、スーツケースから取り出したVz 58自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射し[1]、さらに、ターミナル前に乗客を乗せて駐機していたエル・アル航空の旅客機に向けて手榴弾を2発投げつけた。
この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され、73人が重軽傷を負った。死傷者の約8割が巡礼目的で訪れたプエルトリコ人であった。死者のうち17人がプエルトリコ人(アメリカ国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。犠牲者の中には、後にイスラエルの大統領となるエフライム・カツィールの兄で著名な科学者だったアーロン・カツィールも含まれている。
その後、岡本は警備隊に取り押さえられ、奥平と安田は死亡した。

1984年 サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件

(Wikipedia)
サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件(サン・イシドロ・マクドナルドじゅうらんしゃじけん)は1984年7月18日にサンディエゴ・サン・イシドロ地区のマクドナルドの店内およびその周辺で発生した銃乱射事件。ジェイムズ・ヒューバティ (James Huberty, 41歳) がSWATの狙撃手に射殺されるまで店長以下21人を射殺し19人を負傷させた。犠牲者のほとんどはヒスパニック系だった。
オハイオ州出身のヒューバティはポリオによる歩行障害を負っており、溶接工の職を得ていたが不況により失職し、次第に精神に変調をきたし始める。その後メキシコで職を求めたがうまくいかず、サン・イシドロで警備員を務めたが事件の2週間前に解雇され、自暴自棄に陥ったことが動機と考えられている。

1991年 ルビーズ銃乱射事件

(Wikipedia)
ルビーズ銃乱射事件(ルビーズじゅうらんしゃじけん,Luby's shooting)は1991年10月16日にテキサス州キリーンのレストランで発生した銃乱射事件。ジョージ・ヘナード (George Hennard) が自身のピックアップトラックでイースト・セントラル・テキサス・エクスプレスウェイ1705番地にあったルビーズ・カフェテリアのガラス窓を突き破り43人を撃った後、駆けつけた警察官と銃撃戦となり、トイレに隠れた後銃で自殺した

1994年(-2004年) ブレイデイ法

(Wikipedia)
The Brady Handgun Violence Prevention Act (Pub.L. 103–159, 107 Stat. 1536, enacted November 30, 1993), often referred to as the Brady Act or the Brady Bill, is an Act of the United States Congress that mandated federal background checks on firearm purchasers in the United States, and imposed a five-day waiting period on purchases, until the NCIC system was implemented in 1998. The act was appended to the end of Section 922 of title 18, United States Code.
The original legislation was introduced into the House of Representatives by Representative Charles E. Schumer in March 1991, but was never brought to a vote. The bill was reintroduced by Rep. Schumer on February 22, 1993 and the final version was passed on November 11, 1993. It was signed into law by President Bill Clinton on November 30, 1993, and the law went into effect on February 28, 1994. The Act was named after James Brady, who was shot and wounded by John Hinckley Jr. during an attempted assassination of President Ronald Reagan on March 30, 1981.

1999年 コロンバイン高校銃乱射事件

(Wikipedia)
同校の生徒、エリック・ハリス(Eric David Harris)とディラン・クレボルド(Dylan Bennet Klebold)が銃を乱射、12名の生徒と1名の教師を射殺し、両名は自殺した。重軽傷者は24名。アメリカの学校における銃乱射事件としては、犠牲者数において1966年に起きたテキサスタワー乱射事件に次いで大規模なものであった

2007年 バージニア工科大学銃乱射事件

(Wikipedia)
アメリカ合衆国バージニア州ブラックスバーグのバージニア工科大学で2007年4月16日(東部標準時)に発生した銃乱射事件。
アメリカ国内で起きた銃乱射事件としては当時史上最多であった33名(教員5名、容疑者1名を含む学生28名)が死亡。これは2018年現在でも、史上3番目の犠牲者数である。また、アメリカの学校での銃乱射事件としては、2018年現在でも史上最悪の犠牲者数となった。
同大は翌17日記者会見し、容疑者が同大4年に在籍していた当時23歳の在米韓国人で韓国籍の男子学生、チョ・スンヒであったと発表した。

2011年 ノルウェー連続テロ事件

(Wikipedia)
2011年7月22日、ノルウェーの首都のオスロ政府庁舎 (Regjeringskvartalet) 爆破事件とウトヤ島銃乱射事件が連続して発生した。
政府庁舎爆破事件により8人、銃乱射事件により69人がそれぞれ死亡しており、両事件で77人が死亡した。ノルウェー国内において第二次世界大戦以降の最悪の惨事とされている。
ノルウェー警察当局により、両事件は極右思想を持つキリスト教原理主義者のアンネシュ・ブレイビク(当時32歳)が起こした連続テロとされており、共犯者は確認されていない。なお、単独犯行であることが確定した時点で韓国の禹範坤(1982年に57人以上を殺害した)の記録を抜き、世界最大の短時間大量殺人犯になると言われている。ウトヤ島銃乱射事件での死者には王太子妃の義兄が含まれていた。さらに、ブレイビクは移民の受け入れを推進したグロ・ハーレム・ブルントラント元首相も殺害しようとしていた。
テロ事件発生により、ノルウェー・クローネはUSドルに対して下落。また、リスク分散のため金先物市場で金が買われた。
2011年7月26日夕方、オスロにて事件の追悼集会が開かれた。参加者は少なくとも10万人。イェンス・ストルテンベルグ首相やホーコン王太子も参加した。

2012年 サンディフック小学校銃乱射事件

(Wikipedia)
小学校の児童20人を含む26人が死亡、1人が負傷、事件当時20歳だった犯人のアダム・ランザも自殺した。自宅でアダムの母親(この小学校に併設された幼稚園の元教員)が殺害されており、自宅で母親を殺害した後事件を起こしたとみられている。事件で使用された銃器はこの母親名義だったという情報もある。
亡くなった26人の内訳は、大人の女性が6人、女の子が12人、男の子が8人であった。この死者数は、アメリカの銃乱射事件のうち、2013年時点でバージニア工科大学銃乱射事件に次ぐワースト2位となっている。

2016年 オーランド銃乱射事件

(Wikipedia)
フロリダ州オーランドのゲイナイトクラブで男がAR-15シリーズの自動小銃を乱射した後、店内に立てこもった。約3時間後に特殊部隊が突入し、男は射殺された。これにより容疑者を含む50人が死亡し、53人が負傷した。これは銃乱射事件の被害としては2007年のバージニア工科大銃乱射事件を超えてアメリカの犯罪史上最悪(当時)となった(2017年には犠牲者数59人のラスベガス・ストリップ銃乱射事件が発生した)。
容疑者はアフガニスタン系の両親を持つ、フロリダ州在住の男で、過激派との接触があったとしてFBIにより事情聴取を受けたこともあった。
男は犯行中の午前2時22分頃に警察に緊急通報をした際、ISILに忠誠を誓う発言や2013年のボストンマラソン爆弾テロ事件への関与をほのめかす発言をしており、ISIL系のサイトも「ISの戦士が実行した」と事実上の犯行声明を出している。更に同ナイトクラブが同性愛者が多数集う場所で、日頃より男に同性愛者を嫌悪する発言が目立っていたためヘイトクライムの可能性を男の両親やCNNが指摘している。

2017年 ラスベガス・ストリップ銃乱射事件

(Wikipedia)
現地ネバダ州在住のスティーブン・パドックがマンダレイ・ベイ・リゾート アンド カジノの32階のスイートから大通りラスベガス・ストリップ沿いのラスベガス・ヴィレッジで開かれていたThe Route 91 Harvestカントリー・ミュージックフェスティバル会場に向け自動式の銃を数千発発砲、58人が死亡、546人が負傷した。犠牲者には当時北海道日本ハムファイターズに所属していたブランドン・レアードのいとこの女性も含まれていた。
パドックはその後、警官隊の突入前に自殺したとみられる。アメリカでの単独犯による銃乱射事件としては前年のフロリダ銃乱射事件の死傷者数を超え、史上最悪の被害となった。
ホテルの部屋からはAR-15系ライフルおよびAK-47系ライフルを含む23丁の銃と弾薬が発見され、うち2丁は三脚に固定されテレスコピックサイトが装着されていた。ネバダ州においては警察及び軍公用以外では半自動の銃しか保有することはできないが、パドックは「バンプファイアストック」と呼ばれる装置を用いることで自動小銃に近い速度の連射を行ったとされる。
事件後、警察がラスベガス北東約130kmのメスキートにあるパドックの自宅を家宅捜索した結果、少なくとも18丁の銃と爆発物、数千発の銃弾を発見したと発表した。
この事件における死者は実行犯を除いて58人、重軽傷者は546人であった。
2018年1月、事件の中間発表において保安官は現時点で犯人の動機が一切見つかっていないと発表。

2019年 クライストチャーチモスク銃乱射事件

(Wikipedia)
イスラム教礼拝日である金曜午後に、ニュージーランド南島の都市クライストチャーチのアルノール(マスジドゥンヌール)・モスクおよびLinwood Avenueにあるモスクが連続して襲撃され、51人が死亡(うち2人は病院で死亡、1人は後に現場で発見)。49人が負傷し、病院で手当てを受けた。28才のオーストラリア国籍のブレントン・タラント(Brenton Tarrant)が同日に逮捕された。本事件はニュージーランド史最悪の犯罪事件となった。
犯人はまず13時40分からアルノール・モスクを襲撃し、その模様をFacebook Liveで16分間配信しつつ、41人を射殺した。のちに警察は付近の車から2個の爆弾を発見したが、爆発には至らず処理した。
その後約5km離れたリンウッド(Linwood)のモスクを襲撃した。ここでは7人が射殺された。

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