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「理解のある」という修飾

ひとはひとのすべてを理解できない。

にもかかわらず、

理解のある彼、理解のある親、理解のある先輩、等々、「理解のある」という言葉がまるで素晴らしい修飾として、持て囃されるようになった。

「あの人は自分のことを理解してくれる」

その感覚は決して間違いではないと思う。そういう瞬間は「救い」という名でも呼ばれる。

でもそれは、

自分の「一部」を「その人」が「その時」理解してくれた、と、「自分が」感じた

という事象に過ぎない。しかしそれは素晴らしい瞬間だ。生きていてそう出会えるものではない。

私たちは「他人」であり、抱えている地獄も記憶もそれぞれ異なる。想像しても想像しえないくるしみが、理解しようにも理解しがたい幸福観が、人の数ほど存在している。

誰かに理解を求めることを間違いとは思わない。

むしろ私は、素直に「理解してくれ」と懇願できる人で在れたらどんなに生きやすかっただろうと思う。私は結局こわくて仕方がないのだ、理解されないことが、理解できないと吐き捨てられることが、理解できないことを理解している上で話しているということすら、理解されないことが。そして何より、理解して「もらえない」と思ってしまう自分自身の愚かさが。こわくてこわくて仕方がない。

だからこそそんな他人同士が、友達であれ恋人であれどういう関係性であれ、共にいる状態は奇跡に近いのだと思う。この人は私のこの部分を理解してくれているんだな、と感じられた時、私は初めて安心できる。時々。

理解できないことを理解したうえで、
時々どうしようもなくさみしい私を、

どこかにいきたいと藻掻きながら、
どこにも行けずに泣いてる私を、

ここにいる私をゆるしてよ

2022.06.05

眠れない夜のための詩を、そっとつくります。