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千静のうた絵巻 vol.1-道成寺

松浪流火曜会「千静のうた絵巻 vol.1-道成寺」にご来場ありがとうございます。

松浪流では2023年2月より、毎月第3火曜日に道頓堀並木座で「松浪流火曜会」を開催しております。
上方唄を中心に、毎月の出演者がそれぞれの演出でライブをしており、私は「うた絵巻」と題して、物語の場面から連想される唄をつないで、ひとつの物語りを紡いでいくプログラムをお届けします。
第1回目のテーマは「道成寺」。安珍清姫の物語です。

うた絵巻 -道成寺-

「道成寺」の物語の初出は古く、1040年頃成立の仏教説話集『本朝法華験記』に「牟婁郡の悪女」の話として登場します。
このときには、まだ安珍清姫の名前はなく、女は紀伊国牟婁郡に住む寡婦、男は熊野詣の旅僧です。僧が女の家を訪ね一夜の宿を求めたところ、その晩、女は僧に言い寄り、僧は帰途に必ず立ち寄ると約束して何とかその場を逃れます。しかし、僧は女のもとには戻らず、裏切られたことを知った女は大蛇となって僧を追いかけ、ついに道成寺の鐘に隠れた僧を焼き殺します。死んだ僧は道成寺の老僧の夢に現れ、成仏できない苦しみを訴えます。老僧が法華経を誦すと、その功徳で二人は仏に生まれ変わることができました。

この話が後にさまざまなジャンルで芸能化されます。その過程で、本来は話の中心であったはずの法華経の功徳の話は消え、女は寡婦から娘=清姫へと変わり、僧にも安珍という名がつきます。さらに、新しい後日譚が生まれたり、長い物語の中に入れ子構造のように道成寺譚が組み込まれたり、さまざまな工夫が凝らされます。
そのようにして、能「道成寺」、文楽「日高川入相桜」、歌舞伎「京鹿子娘道成寺」などが成立し、今も人気演目として上演されているのです。

桜三題 「桜見よとて」「葉ざくら」「夜桜」

さて、今回の「うた絵巻」は、季節はずれの桜の唄から始まる……のですが、物語の舞台は一面の桜の道成寺です。
謡曲「道成寺」は「花の外には松ばかり」という詞章で始まります。
さあ、しばし外の蒸し暑さを忘れて、芝居の世界に入って行きましょう。
この桜満開の道成寺に美しい白拍子が現れました。

道行鐘づくし

白拍子とは、はやり歌をうたいながら舞う遊女で、平安末から鎌倉の頃に人気となりました。義経の愛妾・静御前も白拍子でした。

道成寺に現れた白拍子は、恋人との逢瀬を振り返り、朝の別れを告げる鐘が恨めしいと云います。

花の外には松ばかり 花の外には松ばかり
暮れ初めて鐘や響くらん
山寺の春の夕暮れ来てみれば
入相の鐘に花ぞ散りける
げに惜しめども など夢の春と暮れぬらん
そのほか暁の妹背を惜しむ後朝の 恨みを添ふる行方にも
枕の鐘や響くらん
鐘に恨みは数々ござる
入相の鐘に 花や散るらん 花や散るらん

謡曲「道成寺」「三井寺」より
作曲 松浪千静

坊主道成寺

折しも、道成寺では鐘供養が行われることになっていましたが、修行中の坊主たちは退屈そうです。

聞いたか坊主は手まり唄

坊主道成寺 / 円城寺清臣作詞 柏伊三之助作曲

歌舞伎の幕あきでは「聞いたか聞いたか」「聞いたぞ聞いたぞ」と言って坊主たちが登場し、観客に話の筋を説明することがあります。これを「聞いたか坊主」と呼びます。
白拍子に、鐘を拝ませてほしいと頼まれた坊主たちは、女人禁制の言いつけを破って、舞を見せることを条件に許してしまいます。

とんとん おてらの どうじょうじ つりがね おろいて みをかくし
あんちん きよひめ じゃにばけて ななよに まかれて ひとまわり ひとまわり

わらべうた

和歌山には、安珍清姫を歌った、こんな手まり唄も伝わっています。
《坊主道成寺》に手まり唄が出てくるのは、そんなつながりもあるのかもしれません。

けもの道

白拍子は舞っているうちに、だんだん様子があやしくなります。
白拍子は実は清姫の霊であり、かつて安珍を隠した鐘への恨みをしだいに募らせ、ついに鐘に飛び込むと、轟音とともに鐘は落ちてしまいます。

嘘には罰を 月には牙を あなたに報いを

けもの道 / Cocco

愛する人を追いかける、困難な道もものともせずに獣のようにどこまでも追って手に入れる、それは手にかけることも辞さない。自分も相手も逃れられない執着。愛ゆえの恨み。許せない苦しみ。その先には互いの破滅しかないと分かっていても止められない。
『本朝法華験記』はそれを女の悪心の恐ろしさと説き、仏法の力でそこから救われるとしました。しかし、後の時代になるにつれ、道成寺譚から仏法の功徳を語る部分がなくなり、恋の悲劇の物語として伝えられていったのは、それこそが広く人の共感を呼ぶものだったからではないでしょうか。
時代が変わっても、変わらない恋の苦しみ。

清姫が、いつ、どのように蛇体に変じるかにも、いくつかのパターンがあります。

『本朝法華験記』では、男の裏切りを知った女は家に籠り、そこで大蛇となって男を追いかけだします。
『道成寺縁起絵巻』では、追いかけるうちに少しずつ姿が変わっていきます。駆けるうちに履物が脱げ、着物ははだけて髪は逆立ち、炎を吐いて、次第に鬼の形相に変わっていく……

文楽『日高川入相花王』では、「ガブ」という仕掛けのある人形が有名です。

日本画家・小林古径の8枚からなる連作『清姫』の「日高川」の場面では、岸にたどり着いても清姫はまだ人間の姿です。想いが先走って勢いのまま足を踏み出した瞬間のようです。その向こうの暗い部分が何か不吉な予感を抱かせます。

一方、村上華岳の『日高河清姫図』の清姫も、まだ変身していませんが、他の作品のような勢いは感じられず、今にも力尽きそうな、絶望的な表情に見えます。

余談ですが、女性と蛇とをつなぐイメージとして、長い髪があります。安珍を追って走る清姫の黒髪のなびく様も、蛇のイメージと重なります。また、西洋には髪が蛇であるメドゥーサなどもいて、女性の髪と蛇のイメージは洋の東西を問わず共通してあるようです。
偶然ですが、《けもの道》が収録されているアルバムのタイトルは『ラプンツェル』。高い塔に閉じ込められて育てられたラプンツェルが、塔の窓から長い髪を垂らし、それをつたって魔女が、やがては王子がやってくるというグリム童話から採られています。

地歌 古道成寺

さて、鐘が落ちて慌てた坊主たちは、住職に事の次第を報告します。
すると、住職は鐘供養が女人禁制である謂れを語り始めます。

昔、真砂の庄司という人があり、一人娘がいた。その頃、奥州から熊野詣に来る山伏が庄司の家を宿としており、庄司は娘に、あの山伏が未来の夫だと冗談を言っていたが、娘はそれを信じて成長する。ある年、娘は山伏に結婚を迫り、困った山伏は夜中にこっそり逃げ出して、道成寺に助けを求め、鐘の中に隠してもらう。あとを追いかけた娘は、大蛇となって日高川を泳ぎ渡り、道成寺にたどり着くと、鐘に巻きつき炎を吐いて、山伏を焼き殺してしまった。

地歌《古道成寺》は、この物語をすべて歌っているのですが、今回は冒頭から一気に後半部分、清姫が安珍の裏切りに気づいて怒りを募らせるあたりへと飛ぶ形で演奏します。

みだれ桜

ところで、鐘もろとも安珍を焼き殺してしまった清姫は、その後、どうなったのでしょうか。

川本喜八郎の人形アニメーション映画「道成寺」では、清姫は再び人間の姿に戻ります。
欺かれた怒り、恨み、愛の裏返しの憎しみ、そういった激情が清姫を大蛇に変え、安珍も鐘も焼き尽くす炎となって燃え上がったけれど、すべてが終わってしまったあとには、そのエネルギーも消えてしまったのでしょう。
彼女は静かに戻って行きます。もと来た方へ。日高川へ。
先ほどまでが嘘のように静かに。静かに一歩ずつ川へ入っていく。
それは入水。
本当はこんなことを望んでいたのではなかった。自分でもコントロールできなくなってしまった事態に絶望し、その結末に悲しみにくれている、そんな清姫の表情に見えました。

小林古径の連作『清姫』の最後の場面は、「入相桜」。
安珍も清姫も、今は妄執から解き放たれ、それぞれに静かに美しい桜を眺めているのではないか。そんな救いを感じさせる絵のように思います。

《みだれ桜》は、東日本大震災後に作られた曲です。
ライブで演奏されたのを聴いたときには、涙が止まりませんでした。
と同時に、この曲を今回の「うた絵巻」のラストに、という構想も浮かびました。
安珍も清姫も、もういない。
美しく、哀しく、静かな。
桜満開の道成寺。

愛は流されはしないと

みだれ桜 / 宮沢和史作詞 上妻宏光作曲 塩谷哲編曲

けれど、それは二重の意味も感じさせます。
日高川に入水した清姫。それでもなお、流されない愛。
地歌「古道成寺」は、安珍清姫の悲劇そのものを描いていますが、能「道成寺」や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」は後日譚です。道成寺に鐘が再興され、その鐘供養の場に、清姫は再び現れます。怨霊と化した清姫は祈り伏せられて日高川へと退散しますが、それは成仏したわけではありません。清姫の想いはまだ消えずに抱えられたままなのです。

いつか再び清姫は現れるのかもしれません。


「千静のうた絵巻-道成寺」
如何でしたでしょうか。
同シリーズは、9月19日(火)、12月19日(火)にも予定しております。
よろしければ、またご来場くださいませ。

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