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(1)善友性(Kalyāṇamittatā)

パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
本日は仏道という旅に必要な7つの資具、今日は第一番目の善友性 (Kalyāṇamittatā)です。

(1) 善友性 (Kalyāṇamittatā)

善友を持つことは大切なことです。この項はしばしば話されるもので、ブッダは第一項目に挙げられています。善友を持つことは、やさしい言葉で言えば、社会の善い環境状態があることです。それを狭く限定すると両親、教師などの人になります。特に善友として最も重要な義務を果たすのは教師です。指導し説明して、子供を正しい道、学習に導くのです。教師は、この面での義務があり、学習の前兆なのです。
 だからある意味で言えば、教師は学習の前兆である義務を果たしますが、学習そのものではありません。教師は子供に学習を与えることはできません。教師は、子供に学習の過程に入る指導をすることができる人です。善友から、善きマスメディアに至るまでの義務を果たすからです。
 現在のマスメディアは学習における重要な義務を果たすと同時に、学習を破壊しています。もし善くないマスメディアであれば、学習を破壊し、善いマスメディアであれば人々に学習させる義務を果たしています。
 現在マスメディアは、学校の教師よりも学習に、より大きな役割を果たしているように見えます。これは、善友を持つべしという最初の重要な
ことです。
 しかし、善友を持つことは他人が善友になってくれるだけではありません。自分も善を選択して付き合わなければなりません。
 本当に社会の義務として、両親、教師、統治者のように責任あるトップの者は、善友として振る舞い、自分が責任を持つ者に対して、善友を
選び創造しなければなりません。例えば、子供や人々に対して、善いマスメディアの番組を編成することなどです。しかし、子供やその人たちも、自分の善友を選んで付き合うことを知らなければなりません。例えば、人を選ぶこと、知識の源、創造的な思想の源、行為や生活での模範となる人を選ぶことを知らなければなりません。
 学習はその人が善友を知り始めてから本当に始まります。やさしく言えば、もし、子供がテレビの番組を選ぶことを知り始めたら、役に立つ本を選んで読むことを知り始めたら、人と付き合う、あるいは人を選んで相談することを知り始めたら、それは学習が始まったことです。善なる生き方の道が開いたのです。
 もし、法の実践者が業処を行うなど、心修習の面で深く掘り下げれば、善友である教師を得る。善友を選ぶことを知ったら、相談することを知
ったら、あるいは手引きでも、説明書でも探して、選んで読むことを知ったら、法の実践の成就に向けて前進する望みを暗示するものです。
ポー・オー・パユットー 「仏法の思考と実践」
第一部 第2章実践の開始と前進

パユットー師の仏教辞典。これ私的には大変勉強になります。善友性は、この仏法篇の辞書に一番最初に書かれてあることです。
辞書からも引用します。

[1] 善友性(Kalyāṇamittatā:having good friends; good company; friendship with the
lovely; favourable social environment) :助言し教える人、相談相手、付き合う友で良い環境にある人。周囲を助け、支援し、導き、道を示し、模範となることから、お互いに助け合って、学習と生き方、仕事、法の実践、良き社会の環境づくりを前進させるところまで、慧があり能力のある人を選別して親近し、仲間に入ることを知る。この項は、外部要因である(external factor; environmental factor)。
「比丘たちよ。太陽が昇るとき、前兆として夜明けの光が見えるごとく、善友があることは、比丘たちにとって八正道を生じる案内者であり前兆である」
「善友があることは、仏道修行をすることと同じである。善友が八支聖道を増進することを願うからだ」
「善友たるわれわれに頼り、生法ある衆生のすべては、生を脱し、老法あるものは老いを脱し、死法あるものは死を脱することができる。また、秘・悲・苦・憂・悩法あるものは、・悲・苦・憂・悩を脱することができる」
「いまだ修行すべき有学人(Sekha) の比丘にとって、われらは善友ほど有益な外部要因を見ることは出来ない。善友のある比丘は不善(Akusala)を捨離し善(Kusala)を修得することができる」
「善友を持つことは、正法(Saddhamma) をしかと維持し、衰えさせず消失させないために、大いなる益がある」
(第16巻上相応部大篇142-90頁;第17巻増支部一集19-25頁;第23巻如是語経253-4頁)
ポー・オー・パユットー 仏教辞典《仏法篇》

善友を選び、善友と付き合う。子どもの頃とかも、親から悪い子と付き合うな〜なんて言われて育った人もいるかもしれませんね。私は言われなかった方です。友達は少なかったです。

自分で善なる環境を選び出したら、学びが始まったことであり、善なる生き方の道が開いたということ。

私としては、最初はこの外部要因が本当に大切だと思うんです。
なので、多くの方になるべくご法話を聞いてほしい。仏教の教えを知ってほしい。
などと思ってしまうわけです😂

私たちが最初に選ぶものは、選ぼうとするものは、かな。殆どが、好きなもの、です。善なるもの、ではないんですね。
ご飯にしても、仕事にしても、友達にしても、恋人にしても?選ぶものや選ぶ指標はだいたい好き嫌いで選んでいると思います。
私はたまたま仏教が好きになりましたけど、まあ善なるもの、役に立つことが元々好きだったという傾向があっただけです。
でも日常生活はどうかというと、やはり何をするにも好きなことを優先させていますし、やらなければならないことより、やりたいことを優先させようとしている心を発見します。
たぶん、人というものは本来そのようなものなのかもしれません。

いやそんなことはない。と思われる方もいるかもしれませんね〜、皆んな好きなことより、こうした方がよいという善なるものをけっこう選んでますよ、と。やらなければならないことを優先させてますよ、と。
もちろんのこと、そういう側面はあるとも思いますね。最終的には善なるものを選ぶことはあるとは思います。でもよくよく観察してみると、、どうでしょうか。

善友は他からの声、とも書かれてありました。

ちょっと違うかもしれませんけど、人の話は聞いた方がいいですね〜。もちろん限界はあるので今自分が聞ける話を聞くしかないのですが。
私は極端かもしれませんが、誰のどんな話からでも何か学ぶことはあるな〜って思っています。
そこに、心に、学ぶ姿勢があるかどうか、ここだろうな〜って思います。

最後にパーリ語😊🙌

Kalyāṇamittatā 善友性

Kalyāṇa  mitta  tā
(善い)     (友)    (〜性)

この3つの単語でできてます。
パーリ語辞書を引くときに、この単語載ってない!ってよくあるんですよね。活用が違ってたりすることもありますが、この単語みたいにいくつかの単語が合わさったものも多いみたいです。

最後のtāは、抽象名詞を作る接尾辞のようです。全然まだ接尾辞なんて学んでないんですけど、ショバ先生の参考書によりますと、
-tāは女性名詞、その他に-ya, -ttaは中性名詞を作る。そうです😆

ショバ・ラニ・ダシュ 「パーリ語文法」より

集合の意味を表す-tāもあるんですね。この度のものは性質を表す感じの-tāですね。〜であること、〜な状態。〜性。こんな感じの意味のようです。

パーリ語文法の勉強はなかなか進みません。たぶんこのようなことを(note)やっているからなんですけど、、
仕方がないんです。
人はその時やりたいことをやってしまうのです。。なんつって。
パーリ語文法を勉強することもしたいことなんですけどね🤭
とはいえ、もう少し疲れが取れたらぼちぼち頑張ります🙏
疲れている時は、わりと好きなことを優先させていいと思います。そしてエネルギーが溜まったら、やらないといけないこともその内に意欲が出てきたりしますね〜。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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