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縁起に繋がる法「四聖諦」

ポー・オー・パユットー師の「仏法」を学ぶシリーズです。
年末、忙しくなってまいりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?
実際には少しだけやることが増えるだけなのに、気忙しいという。。
ルースースーとタムレンレンですね〜
(ただただ知ると遊び心を持って)(学ぶことです)

私は上記のホームさんの仏教講座で、パユットー師の「仏法」を学ばせていただいただいております。
めっちゃ学べますから、お勧めです〜😊

私の学びの共有として書いておりますので、私のフィルターがあります。そこはご了承の上、ご覧いただければと思います😊🙏

ここまで五蘊から四聖諦までを一通り学んだことになりましたが、お腹いっぱい学んだような、でも全然身についていないような、いや、それでいいのかもしれない。などと、色々妄想中ですが、書いてみようと思います🙏🤭
ただの感想ですが、縁起と業は、なんとなく辛い部分があったような?ですけど、四聖諦は面白かったです。
四聖諦は仏教の心髄。だと思います。以前にも書いたような・・・

仏法を学んで、心が軽くなっていく感覚。心地よいです。
やっぱり道が入ってくるからかな〜と思います。
メカニズムやメリットやデメリットをただ知っていくことって、けっこう辛いといいますか?ある意味では面白いのですが、行き詰まる感じがあるといいますか。。
本当に知ることができると(正見に繋がればかな🤔)、行き詰まらないんですけど、だいたいわかったくらいだと、もうこのことについては知っている、となって、、
で?だから?ってなりませんか?わたしだけ?😂
そこで、それを生かす✨🌱
ということで、報われるといいますか、救われるのかもしれません。
この世というものはこういうもの(三相)なのだから、どうしようもない。
とは、お釈迦様は仰られなかったんです。
方法がありますよ、
苦を滅していく方法があります。
と、四聖諦と八聖道を教えてくださるんですね。
救われますよね😊🙏
私にできることがある、ということなのですから。
ほぼ現実的で役に立つことしかお釈迦様は仰られなかったのでしょうと思います。
でもここは、私が知ろうとするならば、なんだと思いました。
知ろうとしない人には、理解はできないんですね。これは、何のことでも通じるものでしょうと思います。

さてさて私の感想はこの辺にして、、
四聖諦とは、苦集滅道のことですね。

さて、苦集滅道。

仏教を学んでいる人はよくご存知の方も多いと思いますが、私はこの部分、仏教を学びはじめた頃は、けっこうわかりにくかったんですよね〜。たぶん縁起がわかっていないと、わかりにくいのかもしれません。でもこの度、ホームさんの講義で少しだけ理解が進んだ感じがありました。感謝です🙏

簡単に言いますと、
苦があります。
苦の原因があります。
苦の滅があります。
苦の滅にいたる道があります。
かな。

パユットー師の仏教辞典(仏法篇)から、引用します。

[204] 四聖諦(Ariya-sacca 4 : the Four Noble Truths): 最勝の真実、聖者の真実。到達するものが聖者となる真実。

1. 苦聖諦(Dukkha : suffering ; unsatisfactoriness) : 苦しみ。耐え難い状態。圧迫し、矛盾し、不完全で実体と真の安定に欠け、真の満足を与えない状態。すなわち生、老、死、愛さないものに出会い、愛するもと別れ、望むものは得られないこと。要約すれば五取蘊は苦である(*怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦)。

2. 苦集聖諦(Dukkha-samudaya: the cause of suffering; origin of suffering) : 苦の生じる原因は、欲愛(Kāma-taṇhā)、有愛(Bhava-taṇhā)、無有愛 (Vibhava-taṇhā)の三種の渇愛(Taṇhā 3)である。

3. 苦滅聖諦(Dukkha-nirodha : the cessation of suffering; extinction of suffering) : 苦の滅、すなわち渇愛が消滅した状態のこと。無明をなくし渇愛をすべて吐き出し、染まらず、執着せず、解脱して、寂静、清明で自由。すなわち涅槃(Nibbāna)である。

4. 苦滅道聖諦(Dukkhanirodha-gāminī paṭipadā : the path leading to the cessation of suffering) : 苦の滅にいたる道。苦を滅するに至る実践項目は、八支聖道(Ariya aṭṭhaṅgika magga)である。または中道(Majjhimā paṭipadā)とも呼ばれる。「真ん中の道」という意味である。この八支の道は戒(Sila)、定(Samādhi)、慧(Paññā)の三学(Tisso sikkhā)に要約される。

この四聖諦は短く苦集滅道(Dukkha, Samudaya, Nirodha, Magga)と呼ばれる。この四聖諦はもう一つ最勝法の説法(Sāmukkaṁsikā dhammadesanā)とも呼ばれる(例えば第21巻増支部八集49 頁)(*1)。アッタカターの解釈では、ブッダ自身が自ら取り上げられ、すなわち自らの智(Sayambhū-ñāṇa = 覚知)で見られ、公の場で人に説かれなかった説法である(しかし、大抵は「他の説法のように、ブッダが質問や他の聴き手の願いによるのではなく、自ら取り上げて説かれた説法」と説明されている。本当は「最高の説法」と解釈していいだろう。
これは五次第説法(Anupubbi-katha 5) の後に続いて説かれたものに相応しい。最後の訳語については第22巻下増支部十集 109 - 12頁を参照のこと)(*2)。
(*1)「獅子将軍に堪任心、柔軟心……明浄心の生じたるを知り給いて、世尊は諸仏の本真の説法を説き給えり。謂く苦集滅道なり」(Yada bhagava aññāsisihaṁ senāpatim kallacitam muducittam ,,,, pasannacittaṁ atha yā
buddhānam Sāmukkaṁsikā dhammadesanā tam pakāsesi dukkham samudayam nirodhaṁ maggaṁ)
(*2)「われ一切枢要を沙門ゴータマに問いしに、怖じて答えず能くせず」 Sabbam
Sāmukkaṁsikā vata me samaņo gotamo pañhaṁ puttho saṁsādeti no visajjeti nūna na)
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[216] 五蘊、[74] 三愛、[293] 八支道、[124] 三学、[246] 次第説法を参照のこと。

苦の原因は渇愛(タンハー)と言われますね。
なんだそれ〜って、仏教に馴染みのない方もいらっしゃるかもしれませんので、、
世間的に言うと、何かを求める心、何かを掴もうとする心かなあと思います。欲求、期待、こうしたいとか、こうなりたいとかこうなってほしいとか、そういう心でしょうかね〜。
そして、苦の滅のところに、「無明をなくし渇愛をすべて吐き出し、染まらず、執着せず、解脱して、寂静、清明で自由。」とありますね。
渇愛は無明からやってくるんだということですね〜。
無明という言葉も、難しいかもしれませんね。
無明は、明るくない、ちょっと真っ暗闇を想像していただけるといいのですが、真っ暗闇の状態だと、そこに何があるのかわからないという状態だと思いますし、自分がどこにいるのかさえわからない状態、自分というものもよくわからない、そんな状態だということですね。だから手を伸ばして、それが何であるのか確認していく(渇愛)んでしょうかねえ。。私はなんかそんなイメージなんです😂

さてさて、苦集滅道は二つのパートに分かれているということです。と、お聞きました。

一つが、苦と集
もう一つが、滅と道

ということなんですね。

苦が果。集は因。 苦しみ部門
滅が果。道は因。 幸せ部門

苦の原因があるから、苦(果)がある。
道(因)があるから、滅(果)がある。
苦を知り苦の原因から離れ滅の原因を生じさせる。
すると、苦が滅して自身の幸せを高めていくことができる。

浦崎さんはよく、この、幸せを高めていく、という言葉を使って訳されます。
最初はなんとなく聞いていた言葉なのですが、最近では、そうだな〜って思うんです。

誰もが幸せになりたいと生きていると思うのです。誰もが不幸になりたいと思って生きていないんです。

幸せ、という言葉の定義がいるんですけど、、、苦がない、とでも言いましょうか。
人それぞれに自分が幸せだと思っているものや状態が違ったりしますね。
もの、お金、家族、友人、仕事、趣味、、、
物質的なものや精神的なものでも、何かを得たとしても、得たと思ったとしても、結局は、そこにはそれらを手放していかなければならない現実が立ちはだかります。
それらを観察していくと、、何かを得ることに幸せがあるのではなく、手放していくことに本当の幸せがあって、何かを与えられることに幸せがあるのではなく、与えていくことに本当の幸せがあって、、
ああ、だから仏教と世間はあべこべだと言われるんかな〜って、一人で納得している私です。


苦の原因から離れて、苦を滅する因を生じさせる。起こさしめる。
すると、苦がないので、幸せだってことなんですね。
当たり前のことを言っているようですが、実際にこのように生きられるのかというと、なかなかそう生きていくことは多くの人にとっては簡単なことではないんだと思います。


苦を明らかにすること。
苦を知ることです。
苦しみになることではなく、苦しみを知ることです。


苦しみの原因から離れることです。


苦の滅をなすことで幸せが起こります。
それを生じさせる、起こさせる、起こさしめることです。


道はなすべきことです。
心を鍛えていくこと、トレーニングしていくことです。

苦集は苦しみ部門であり、知るという部分
滅道は幸せ部門であり、実践する部分
と、このようにお聞かせいただきました。
でもここって、知ると実践って、別のことではないんですよね、知るということが既に実践となっている気が私はするんですよね〜🤔

ここで、ホームさんが最後の方に説明されていた部分はここかな〜と思って、またパユットー師の仏教辞典から引用させていただきます。
苦集滅道、それぞれに、やることがある、と言われていたかな?

[205] 四聖諦の所作(Ariyasaccesu kiccāni 4 : functions concerning the Four Noble
Truths): 四聖諦の各項に対してなすべき義務。四項目のそれぞれで、正しく実残して終えるべきことは、四聖諦を知る、あるいは覚知する人と言われる。

1. 遍知(Pariññā:comprehension; suffering is to be comprehended) :「苦聖諦は遍知すべし」(dukkham ariyasaccam pariſſeyyam)という原理に従い、苦を遍知することが苦の仕事である。すなわち真実の状態に従ってはっきりと知り理解するように学習すべきことで、問題を理解し、範囲を定めることである。

2. 捨断(Pahāna : eradication abandonment; the cause of suffering is to be eradicated):
「苦集聖諦は断すべし」(dukkhasamudayo ariyasaccaṁ pahātabbaṁ)という原理に従い、捨断することが集でなすべき仕事である。すなわち解決し捨断してなくすことで、問題の根源を捨断して解決することである。

3. 作証(Sacchikiriyā : realiziation ; the cession of suffering is to be realized) : 
「苦滅道聖諦は作証すべし」(Dukkhanirodho ariyasaccaṁ sacchikātabbaṁ)という原理に従い、作証することが滅での仕事である。滅は明らかにすべきである。すなわち到達、または成就することで、問題のない状態に到達し求める目的を達成するのである。

4. 修習(Bhāvanā : development; practice; the path is to be followed or developed):
「苦滅道聖諦」(Dukkhanirodhagāminī paṭipadā ariyasaccaṁ bhāvetabbaṁ)
の原理に従い、増進することが道でなすべき仕事である。すなわち修習し、実践し、目的に導く方法に従って行うべきで、問題解決の実践である。
 聖諦を説くときでも、聖諦に従って実践するときでも、聖諦のそれぞれの項目をそれぞれの仕事と直接関係づけなければならない。それが正しい説明であり実践である。これらは以下項目の通りである。

1.苦 (Dukkha) : 理解して範囲を知る問題を明らかにする段階である
(Pariññā : statement of evil; locaton of the problem).
2.集(Samudaya) : 解決しすべてを捨断すべき問題の原因を分析し判断する段階である(Pahāna: diagnosis of the origin)。
3. 滅(Nirodha) : 求める目的である問題のない状態を説明し、問題の解決は可能で、成就しなければならないその目的に到達すべきであることを見せる段階である(Sacchikiriyā : prognosis of its antidote; envisioning the solution)。
4. 道(Magga) : 問題解決の実践すべき方法、部分、詳細を定める段階である
(Bhāvanā : prescription of the remedy; programme of treatment).
すべての実践の成就は[73] 三智(その2)の原理によって調べられる。
(第3巻律蔵三19-20頁;第16巻下相応部大篇340-2頁)

苦集滅道の、それぞれに、なすべきことがある。

ホームさんが、「そのことを知っている」ということの、指標となるものを教えてくださいました。
皆さんも、何かの分野の専門家、だったりしませんか?このことについては、わたしは知っている、と思う時、それはどんな状態か?何をもって知っているとみなすのか、ということだと思います。

それは四つ
① そのメリットを知っている
② そのデメリットを知っている
③ どうしてそれが生じるのか知っている
④ どうしたらそれが滅していくのか知っている
南伝大蔵経だったかな?という経典に書いてあるそうですが、あらゆる場面で使える、真理なんでしょうね〜。と思いました。

面白いよな〜って思います。
八正道、八聖道。
苦しみって、何ですかね。
幸せって、何ですかね。
人生って、何ですかね。
生きるって、どういうことですかね。
死ぬって、どういうことですかね。
この答えを出してくれるのは、やはり仏教かな〜と、私は思っています。
でも、私が知ろうとしなければ、知ることはできないのだと思います。

たぶんですけど、多くの人はこの「苦」を知ろうとすることがないのかもしれません。
人生は苦しいと感じている人がもしいたら、探究してほしいなと思います。
苦しみになるのではなく、苦しみを感じている、その苦しみを観てほしいなと、知ってほしいなと思います。

そして、今ここ。
難しいことがわからなくても、今ここを感じることは誰でもできると思います。
今この瞬間を知ることは、難しいことではないと、思います。

私が、私の、私のもの、という自我があるから、学べます。
自我、だと思っているものを、よく観るんですね。
苦しみになるのではなく、苦しみを知る、観るんですね。

ああ、私は、自我は、このようなものに執着しているのだな、と。
それが、世間で言われる自分を知るということではないかなと思います。

知って、観て、どうするんでしょうか。

もしそれが嫌な自分、ダメな自分、だと感じたら、もう見たくないでしょうし、向き合いたくない、逃げたい、と思うかもしれません。もしそれが好きな自分、素敵な自分だと感じたら、そんな自分に執着するでしょうし偉そうになってしまうかもしれません。そしてその状態が壊れたら、嫌悪するのでしょうと思います。
でもそんな自分を、どんな状態の自分でも、受け入れることができた時、に初めて本当の幸せを感じることができるんだろうと思います。それって最強だな、と思います。

世間では、人になるべく迷惑をかけないように生きたり、人に優しく接したり、することは大切です。
でも一生懸命にやったとしても、完璧ではない私のすることです。失敗しますし、つい自己中心的に振る舞ってしまうこともあると思います。そこでは反省して、次からまた頑張ればいいと思います。でもそれを許してくれない人も当然いると思います。

心の中の修行は、人からどう思われようと、関係ないんです。
あの人が、誰かが、私を嫌っていたとしても、軽蔑していたとしても、馬鹿にしていたとしても、また逆に、尊敬していたとしても、好きであったとしても、どちらでもよいのです。
ただ、そこから学んでいくのですね🙏😊

もし、今苦しみの中にいたとしたら、それは私が苦しみになっているんでしょうと思います。
その苦しみをちょっと、人ごとのように観察してみる。
私は、苦しんでいる自分を笑うようにします。あ、また苦しみになっちゃってるじゃんって😆
そして、優しく見守るように心がけます。
誰もが傷ついた自我を生きていると、そう思うからです。それは私も、人もそうだろうと思うのです。
深刻にならずにでも真剣に。
その傷ついた自我になってしまわずに、苦しみになるのではなくて、苦しみは知るものなのだと、生きていきたいですね😊

なんかちょっと感想多めの回になってしまいましたが、、ま、こういう時もありますね😂
本当に学びの多い講義に感謝いたします😊🙏🙇‍♀️

生きとし生けるものが幸せでありますように

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