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ビーイングダルマ

私が尊敬する仏教の長老のお一人に、アチャン・チャーという方がいらっしゃいます。もうお亡くなりになっている方ですから、います。は、本来おかしいのかもしれませんが、私にとっては、いつでも本などでご法話を読むことができますから、います。なんです😊🙇‍♀️🙏

アチャン・チャー Ajhan Chah
1918年、タイ東北部イサーン地方ウボンラーチャターニー近郊に生まれる。20世紀のタイにおけるテーラワーダ仏教を代表する僧侶の一人。9歳で沙弥出家。20歳で比丘出家をする。1954年、生地近郊の森に自らの僧院であるワット・パー・ポンを設立。アチャン・チャーの卓越した指導力は瞬く間にタイ全土に広がり、簡素な寺院として始まったワット・パー・ポンはタイ有数の森林僧院となる。
また、全国に数多くの分院も作られ、1975年にはアチャン・チャーの名声を聞き、外国から修行にやってきた人々のためにワット・パー・ナナチャットを設立。多くの外国人比丘を育てる。主な外国人の弟子に、ジャック・コーンフィールド、イギリスのアマラワティ僧院僧院長アチャン・スメードーなどがいる。邦訳された著書に、「[増補版手放す生き方』『無常の教え』『アチャン・チャー法話集」(以上、サンガ)がある。1992年、逝去。その葬儀には百万人以上の参列者が集まり、故人を偲んだという。

昨年、法友さんが読んで紹介していたのを見て、すぐに買って読みました。
「ビーイング・ダルマ」とてもいい本だと思います😊🙏
仏教に興味のある方で、まだ読まれていない方はお勧めです。

読書瞑想

ある法友さんが、そのように言ってました😂
いや、本当にそのくらい、読んでたら、あれ?私悟っちゃうんじゃないか?!ってくらい、けっこうきましたね〜。悟りませんけど🤣🙏

私がいいな〜と思ったフレーズをTwitterで、しばらく呟いていましたね〜。その何個かを紹介します😊🙏

「どんなものも握りしめてはいかん。おまえさんの心や身体でさえ、自分の所有物ではないんじゃ。それらのほとんどは、おまえさん自身コントロールできんもんじゃろ。わしらは自分の心身を大切に扱わなければならん。じゃが、あらゆる現象は無常という法則を免れず、わしらの思うようにはならん。このことを本当に理解したとき、おまえさんはどんな環境のもとで暮らしても、平安でいられることだろう」

どんなものにも執着してはいけない。どんなものも無常だし執着するに値しないものでしょう、と。私たちがコントロールすることのできないものであると理解することですね。

世間の人々を、自分の思ったように変えることはできません。私たちはただ、自分にできることをすればよいのです。現象はただ生じ、やがて変化し、最後には滅します。自分が置かれた状況と能力をよく理解し、できることをすればよいのです。自分の能力を超えたことを試みると、悲惨な結果を招きかねません。このことをよく考えてほしいのです。これは決して、利己的な考えではありません。

私たちは、思い通りにしたいのですね。自分を、人を、社会を、世界を。
でも実際には、自分ができることをするしかないのですね。
でも自分自身をもきちんと把握することも難しいことです。

そして、これ。
どのように修行をするのか😊🙏

とのように修行をするのかについて、もう一度確認をしよう。最初におまえさんが目指すべきなのは、誠実で正直な人間になることじゃ。そして、次に目指すべきなのは、悪行為をすることを恥じ、恐れる人間になることじゃ。それから、三番目に目指すべきなのは、謙虚な心を持ち、欲が少なく、満ち足りている人になることじゃ。欲が少なく、発言や行動を飾制しているものは、自らを知り、放逸になることがないじゃろう。
 この三つは、修行の基礎となるものじゃ。そうしたことがきちんと備わっていれば、戒・定・慧の三学が備わっているということになる。心を、三学で満たすのじゃ。
 常に、放逸であってはいかん。これは、すべてのことについて当てはまることじゃ。善いことをしているときや、正しいことをしているときでも、放逸であってはいかん。善いことをしているときでも悪いことをしているときでも、幸福であろうと、不幸であろうと、放逸であってはいかん。ブッダはわしらに、常に不放逸(appamada)であれと説いた。なぜなら、世の中というものは、いつも不確実(anicca)だからじゃ。
 わしらの心についても、同じことが言える。瞑想をして心が静まっても、その状態に執着しちゃいかん。ただ、放っておくことじゃ。良い状態に執着してしまうのは自然なことじゃが、ただ、起きていることに気づくのにとどめておくように。善い心の状態であれ、悪い心の状態であれ、ただ気づく(sati)のが大事じゃ。

ここは、大切なところだと本当に思います。
仏教では、戒定慧の三学、修行の基礎と言いますか、土台のようなところと思います。でもそれがすべてであるとも言えそうです。

そして、不放逸でいることの大切さ。
現象とは無常です。いつでも変わりゆくのです。うっかりしていては、うっかりぽっくりなのです。わけわかめです。

執着してしまう心は自然なこと、ですけど、それをわざわざ、持ち上げて抱えて持っている、ということをしないように(byパイサーン師)ただ、執着してしまう心に気づき続けるように、だと思います。

瞑想指導者は、瞑想の方法について教えることができるが、それを実践できるのはお前さん自身だけじゃ。自分の心を観察すれば、あらゆることが理解できる。他の誰かに、代わりに修行してもらおうと思っても、それは無理と言うものじゃ。きちんと自分自身を観察していれば、どこにいても、何をしていても、安心して過ごすことができる。もちろん、真面目に取り組むことが必要じゃ。何事も真剣に取り組まなくては、成果は得られん。本当の修行は、心の中で行うものじゃ。じゃから、修行をしたからといって、疲れるなどということはない。気づき(sati)を失うことがなければ、今起こっていることを、ちゃんと理解することができる。おまえさんはすでに、何が善で、何が悪か知っておる。そして、瞑想実践の方法も知っておる。修行するために必要なことは、そんなにたくさんあるわけじゃないのだ。

「本当の修行は、心の中で行うものじゃ。」「気づき(sati)を失うことがなければ、今起こっていることを、ちゃんと理解することができる。」

ここでの瞑想とは、観察瞑想。いわゆるヴィパッサナー瞑想と言われるものと思われます。
私としては、禅定のような状態を目指す、サマタ瞑想よりは、心身の状態を観察する、ヴィパッサナー瞑想の方がお勧めです。
巷でいう、マインドフルネス、というものがあって、仏教のヴィパッサナー瞑想から宗教的な部分を取り除いたもの、と言われているようです。それも同じような感じかなあと思います。

瞑想、という言葉はどうも私にはしっくりこないんですね。マインドフルネス、もしっくりきません😆🙇‍♀️私にとってはただの観察なんです。そして訓練なんです。
自分自身の体や心に起こっていることを、観察するんです。
それから、自分の日常生活の動きや、人とのやりとりなんかも観察するんです。
自分がどのように考え、どのように感じ、どのように喋り、どのように振舞っているのか、体においては、呼吸や鼓動、体温、関節の動き、目線、何に心を動かされ、何に今心が向いていて、どう感じているのか、とにかく今、ここに起こっている現象を、気づいたものをただ、確認していく作業です。
考えるな、感じろです(最近好きなフレーズです)😆

これ、私にとっては楽しい作業なんです。私というものが見えてくると言いますか、自我のひょこっと出て来る瞬間(執着する時でしょうか)とか、あ、今怒ったね〜とか。肩に力入りかけたわ〜とか。焦りとか、不安とか。そういうことにただ、気づき続けるだけなんですが、私にとってはそれが、生きていることで、日常です。

気づきを間に合わせていく。不放逸でいる努力をする。

如理作意で物事を捉えて、考えてみる。

そして、慈しみで生きてみる。

たぶん主にはこの3つに気をつけながら生きるんです😊🙏

アチャン・チャー長老だけではなく、他の長老方、皆様のお言葉はいつも優しく、そして私たちを励ましてくださっていると感じます。感謝しかありません😊🙇‍♀️🙏

皆様が健康で安穏でありますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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