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正精進とは頑張ることか?

ちょっとだけ🤏
正精進について書きたくなったので、書こうと思います。

私は仏法に出会って、この道を歩むことに決め、今もその道を歩んでいます。。。
ナンツッテ〜

精進って何だろうとか思うんです。

一般的な「頑張ること」との違い?

先日、ホームさんの仏教講座での正精進のお話を聞いて、感じたんです。

頑張るってどういうことなのか

今までの人生において、皆さんが頑張ってきたことって、何かありますでしょうか?

私は、考えてみますと、、

受験勉強はあまり頑張ら(れ)なかったし、就職活動もそこまで頑張ってないし、いつもその時の自分がいけるところ、しかいってない😅
でも、仕事は頑張ってやっていた気がします。
でも、、頑張れば頑張るほどに疲れていきました。そしてドロップアウトしました。
自分の能力以上のことをやろうとすることが、頑張ることだと思っていた気がしました。

たぶん、この辺かなあ。

でも、不放逸でいるように。とか、骨と皮になるほどまでに努力しましょう。とかいう表現を聞いてしまうと、そのように、頑張ってしまう気がします。
そのように、
とは、能力以上に、とか、身を削って、頑張らないといけない!
と思い込んでしまうことです。

実際には、そのように頑張っているふうに見せないと、がんばってない、と、いい評価をされなかったり、自分自身に対しても、全然がんばってないよね、という評価を与えてしまっていたりする気がします。

最近では、頑張れ!って、気軽に人に言えない雰囲気もあったりしますね。

たぶん、「頑張る」
ということの、言葉の、定義がいるんだと思います。

人によって認識が違いますが、精進って聞くと、だいたい努力する、とか、頑張るというイメージだったりするからです。

英語では、do your bestとかよく言ったりするかな?
ベストを尽くす。かな。これだと、今自分の持っている能力を発揮する、ということだと思うので、能力以上に頑張る必要はなさそうです。

なんか理想とか目標みたいなものがあって、ひたすらそれに向かって努力すること。
これは頑張ることでしょうね。
また、本当はやりたくないけど、やらないといけないことってありますよね。そういったことを、わがままにならずに、ただやっていくこと。
とかも頑張ってるっぽい。

自分の能力以上のことを背負っちゃって、頑張ると、長続きしない。
自分のできることをできるだけやっていくこと、これをなるべく長続きするようにやっていくこと。ここが頑張りどころだと思います。

頑張るって、言葉の本来の意味は?我を張る意味だったりするので、我を張る方向の頑張るは、よくないんでしょうね😊
我を張らない方向の頑張るが、いいのかもしれません。
どういうこと?!
執着の方向ではなく、手放す方向で頑張る、とホームさんの講座で受講されていた方が言っていたような。。。

人によって頑張るということの認識は違うということですね。

仏法の正精進とは

◆ 正精進

※ 定義


この道の支は定、あるいは増上心学の分野の最初の項である。経典によれば次のように定義されている。

「比丘たちよ。正精進とは何か? これは正精進と呼ばれる、すなわち、この律、法における比丘である。
(I) 未だ生じていない悪しき不善を起こさないために、意欲を起こし、努力し、精進し、心を励まし、勤めること。
(II) すでに生じた悪を捨断するために、意欲を起こし、努力し、精進し、心を励まし、勤めること。
(ⅢI) まだ生じていない善を起こすために、意欲を起こし、努力し、精進し、心を励まし、勤めること。
(Ⅳ) すでに生じた善を存続し、消失せず、繁栄し、完全になり、大いに増大するために、意欲を起こし、努力し、精進し、心を励まし、勤めること」


論蔵ではさらに次のように定義を増やしている。

「正精進とは何か? 心の中の精進を集中し (Viriyā-rambha)、前進し、努力し、一心不乱に、真剣に、忍耐強く、堅固に安定して、止まることなく前進し、志欲を捨てずに、仕事を捨てずに仕事を背負い、道の支である道にある精進、精進根 (Viriyindriya)、精進力 (Viriya-bala)、正精進、精進覚支 (Viriya-sambhojjhaṅga)、 これが正精進と言われる」

経典における定義に従い四項目に分けられた正精進は、 正勤=正断(Sammappadhāna)、あるいは四正勤 (Cattāro padhānā) とも呼ばれ、各項ごとの呼び方がある。

①律儀断 (Savara-padhāna)
 まだ生じない悪を防ぐ、あるいは注意する
② 断断 (Pahāna-padhāna) 
 すでに生じた悪を捨断する、あるいは駆逐する
③ 修断 (Bhāvanā-padhāna) 
 まだ生じない善を増進する、あるいは作る
④随護断 (Anurakkha
ā-padhāna)
 すでに生じた善を保護し、奨励する

場所によっては、これらの四つの努力の例をあげて説明している。 例えば、

① 律儀断は、比丘が眼で色を見て、相 (Nimitta) に捉われず、 (一般的な形、特徴に捉われない) 細相 (Anubyañjana) に捉われず、慎ままなければ当然不善の原因になる根を、すなわち、貪欲と憂が捉えるものを慎んで実践する。眼根を慎んで眼根を維持し、耳で音を聞き、鼻で香を嗅ぎ、舌で味わい、身で触(Phoṭṭhabba) に触れ、心で法所縁(Dhammārammaṇa) を知ること。 (他の根についても同じように繰り返す)
② 断断は、比丘が、生じて根を下ろした欲尋、瞋尋、害尋、一切の罪、不善を入れずに、捨断し、軽減し、無くして残りのないようにすること。 
③修断は、比丘が解脱のために、遠離、離欲、滅に基盤を置く七覚支を増進して向かうこと。
④随護断は、比丘が善い定相(Samādhi-nimitta)、すなわち、生じた六想(Chā-saññā)を大事にすること。
ポー・オー・パユットー 「仏法」

ホームさんの仏教講座でも上記のものをもっとわかりやすく教えていただきました。

まだ生じていない悪しきことを起こさせない努力 (予防する)
もうすでに起こってしまった悪しきことをなくしていく努力 (滅する)
まだ起こってない善きことを起こしていく努力 (生じさせる)
すでに起こっている善きことをバージョンアップさせていく努力 (発展させる)

これが正精進の方向性。

※ 精進の特別な重要性

 すでに述べたように正精進は常に他の道の支を支援する、道の三項目 (正見、正精進、正定) のうちの一つであり、また実践に関係するほとんどすべての法に、何らかの名前で入っていることから分かるように、精進は仏教の一つの重要な美徳である。 この法の重要性が強調されているのは、次の仏法にも見られる。

「この法は懈怠者(Kusīta) のためではなく、発勤者 (Āraddhaviriya)のためにある」
「比丘たちよ。 我々は二つの法の徳を知る。すなわち、
一、一切の善法に知足せず。   
(Asantu
ṭṭhitā kusalesu dhammesu)
二、精進に後退するなかれ。 (Appa
ivāitā padhānasmimu)
 ......だから、お前たちはこのように学ぶべきである。 我らは後退せず精進する。たとえ皮だけ、筋と骨だけになろうとも、体の中の肉や血が枯れ上がっても、人間が人間の力で、 人間の精進で、人間の努力で当然達成すべき成果を達成しない限り、精進を止めることはありえない、とこのように学ぶべきである」


 努力に重要性を置くのは、他の理由のほかに、真法は自然界の法則、あるいは法性としてある真実の原理であり、如来はこの真実を見出されて、他の人に説かれたという、仏教の基礎的な原理に由来している。実践から成果を得られるのは、自然の因縁により公平に起こることであり、如来の力でしてやれることではない。そうであれば、各人は自分の力で成就するように努力しなければならない。行わないで求める成果を希望したり、懇願したりしてはならない。
 仏教の原理は次のように言う。

「汝ら当に努力すべし。如来は説者なり」
(Tumhehi kicca
 ātappa akkhātāro tathāgatā)(ダンマパダ276)
ポー・オー・パユットー 「仏法」

正精進は常に他の道の支を支援する、道の三項目(正見、正精進、正定)のうちの一つ。
一切の善法に知足せず、精進に後退するなかれ。
そして自分自身が努力すること。
ですね。

※ 根のバランスを取った適度な精進

 しかしながら、精進は他の項目の法の実践と同様に、 まず心の中で正しく用意されて形作られ、それから広がって外部の行為の中に溶け込むのであって、努力しようと考えるのではなく、ただ、身体の力を集中して投下して使う。それは自分を苦しめて酷く損なうことになるかもしれない。
 この意味において、精進することは法の他の項目、特に正念正知と一致しなくてはならない。知識と理解があり、緊張せず緩みすぎないように、と言われるように、慧を用いて精進を適切に進める。 次のような話がある。
 ソーナ比丘が王舎城 (ラージャガハ)に近いシータワンの森に止住されていたとき、厳しい精勤をして、両方の足が裂けるまで経行したが、成就しなかった。静かな場所にいるとき、次のような考えが浮かんできた。

「一心不乱に精勤するすべての如来の聖弟子の、私もその一人だが、私の心は漏から離れて取をなくすことができない。私の家には財産がある。それを使って様々な善を行える。止めよう。出家を止めて、財産を使い、様々な善を行おう」
 ブッダはソーナのその考えを知られて、おいでになり話された。

ブッダ 「ソーナよ。そなたは(前述の) 考えが浮かんだだろう?」

ソーナ「その通りです。大徳」

ブッダ 「どのように考える? 以前、在家のとき、琴を弾くのが得意ではなかったか?」

ソーナ 「その通りです。 大徳」

ブッダ「どのように考える? 琴の糸が張り過ぎているとき、その琴はいい音色が出たか? 使いやすかったか?」

ソーナ 「そのようなことはありません。大徳」

ブッダ 「琴の糸が張り過ぎてもいない、緩みすぎてもいない、ほどほどのとき、琴はよい音色ではなかったか、使いやすくはなかったか?」

ソーナ「その通りです。大徳」

ブッダ 「それと同じことだ。ソーナ。やり過ぎた努力は、支離滅裂となる。緩み過ぎた努力は怠惰となる。それ故に、適度な努力をするようにしなさい。すべての根を平等にほどほどにすることを理解すれば、その平等にほどほどの相を得られる」
ポー・オー・パユットー 「仏法」

でも適度に。
中道にも通じますね。
どうしても私たちは、偏りやすくなるんでしょうと思います。緊張するか、緩むか、この2択だったりする。本当は、緊張せず緩みすぎない状態。言葉にしちゃうとなんだそれ!とか思いますけど、これベストな気がしてます。

緊張もよくないですけど、緩みすぎるのもよくない。

そして、その時の心の姿勢かな〜?
適度に、気づきを持って、やる。見守っている。ケアしている。
とお聞きしました。
気づきをもってないと適度にできないでしょうな〜と思います。
やり過ぎちゃって疲れちゃったり、休みも必要と休むと休み過ぎちゃったり🤭


そして、カンポンさんが、教えてくださいます。

「私たちはこの人生を
善く生き、賢く生き、
すべての果たすべき役割を正しく生きていく。

しかし、心においては
何も期待をしない。

皆さんは
そのように生きる勇気がありますか?

果たすべき役割を正しく行なう。

それこそが、幸せなのです。

心においては、期待がない。

それこそが、苦しみなき、なのです。」


この身においては、人生を善く生き、賢く生き、
すべての果たすべき役割を正しく生きていく。
でも心においては、苦しみなく生きていく。

私の理解です。
すごいなって思っちゃいます😂🙏

言葉の誤解を恐れずに書きますと、
何が起きても大丈夫。
老いたって、
病気になったって、
死んだっていい。
どんな境遇の私でもいい。
そこには苦しみがない。
ここを本当の意味で正しく理解することも難しいと思いますし、実践することも容易ではないと感じます。
ですから、正精進🙏

まとめ🤗

正精進とは、四つの方向性(悪しきことはしない、悪しきことをやめる、善きことをする、善きことを発展させていく)のことを、この身においてはしっかり行っていくが、心には気づきをもって適度に努力をしていくこと。

適度、中道、って、難しいんですけど、修行のしがいがあるなあ〜って😊🙏

なんか書きたくなっちゃったんで、書いちゃいましたね😂🙏
感謝🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

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