エッセイ「けん玉と父親」

前編「検定とその後」
 
 十二月。僕はけん玉検定一級を受検した。
 日本けん玉協会がオンラインショップで販売している、「けん玉検定をZoom会議で受けられる権利」を税込み千円で購入し、当日は「灯台ができれば一級に合格できるんですけど、なかなか成功しなくて」という事前連絡を済ませた上で、無理かもなという姿勢で臨んだ。
 日曜日の夕方、晩御飯の支度を済ませた十七時。パソコンを起動して準備を進める。オンライン上の自分の名前が「クレイジー・マングース」というふざけたものになっているのを慌てて修正し、心臓をぐっと落ち着けながら、マイけん玉を手にする。父親以外に習うのも、検定の受検も初めてのことだった。灯台という、玉を持って本体(けん)を浮かせて、玉の上に乗せて三秒間静止させる技、やはりできない。一年間練習してきたのに。
 約束の時間になると自動的に会議が開始される。
「こんにちは」
 相手は眼鏡をかけた好青年だった。たぶん同い年くらい。胸から上を映している。画質からしてスマホだろう。
 僕は自分の全身がちゃんと映っていることを確認してから頭を下げた。
「お願いします」
 いざとなると緊張が解けるタイプ。
「えー、灯台ができないということで」
「はい」
 さっそく技のレクチャーが始まり、上げる高さや玉の持ち方などを教わることができた。その間に、けん玉教室のない奄美に住んでいること、教わるのが初めてであること等を話した。
 最初の十分間が終わる頃には、自分でも驚くことに十回に一、二度は灯台を決められるようになった。合格ラインを超えたのだ。
「それ、大空ですか?」
 先生はけん玉のブランド名を言い当てた。そう、山形工房の競技用けん玉「大空」である。日本では最大手と言っていいだろう。知らんけど。
「はい」
 やや汗ばんだ手でけん玉をカメラに近づける。
「無地なんですね」
「そうなんです。塗装が剥がれるのが嫌で」
 物心がつく頃には、大皿に玉を乗せられるようになっていた。父親が教えてくれたおかげだ。二階の寝室で、両親の敷きふとんの上でひたすらにけん玉を回していたのを覚えている。小学校の出し物会では得意げに披露し、周りからの賞賛を得ていた。玉を振り回してけん先に入れるという、ふりけん程度はできていた。当時は青色の玉を使っていたのだが、何年も使用していると剥げて不格好になる。仕方のないことだった。
 中学に上がってからは小説とゲームに熱中していたので、けん玉は息抜き程度、一日一回握るか握らないかだった。平成の思春期だぞ。ふりけんができたところで何なんだ。
 再び技を磨き始めたのは、学校の先生になって三年目の二十八歳。大阪の子どもはすぐに、「なんかおもろいことやって」と言ってくる。お笑い文化だから。最初は適当に怖い話等を雰囲気たっぷりに語っていたが、ストックにも限りがある。何か他にないか? いいから授業に集中しろと言って無視することもできたが、三年目にして考えた。生徒に言われたとき、生徒がたまらなく眠そうなとき、何かあるならそれはそれで助かる。気分転換になるようなものを。そう言えば、けん玉は今でもできるだろうか。
 結果的にはウケた。日本一周、世界一周という技を成功させたのもこの頃だった。家にある傷だらけの青色が嫌で、木目のものをネットで購入して使用した。
 奄美に移住してからは、飲み会芸として披露するようになり、そしてとうとう、検定を受けるまでになった。
 画面の先生は言う。
「塗装されてる方がやりやすいんですよ」
 僕は、そうなんですねぇと生返事をしてしまった。もうじき始まる本番に向けて気が高ぶっていたからだ。無塗装のけん玉で灯台の練習を続ける。
 部屋に声が響く。
「よし、じゃあ始めましょうか。一級、いけると思います」
 
 検定には合格し、郵送されてきた賞状とも記念写真を撮った。
 しかし先生の言葉が引っかかる。ネットには信じられない情報が並んでいた。同じ競技用の中でも滑りにくい塗装を施しているものがあったり、あろうことか玉用のワックスさえ売られている。プレミアム塗装で灯台の成功率アップだとか何とか。
 え? これまでの練習は何だったの?
 大人になってから木目を買って、これが普通のけん玉だと思っていた。色付きのものと変わらないと思っていた。
 そういえば先生、やけに褒めてくれたな。独学で一級までいくのはすごい、段も取れますよって。そういう教育方針なのかと。
 僕は文房具屋へ急ぎ、一般的なザ・けん玉を確認した。赤色の球を指でなぞる。衝撃だった。イオンにも走り、同じ「大空」の黒色を購入した。家に帰ってすぐに開封して灯台を試す。
 玉の上で直立不動なけんを見て、怒りが湧いてきた。もう一度、今度はいい加減に浮かせてみる。ピタッと吸い付くように立つ。中皿の側面、けんじりには、キラキラと「認定品」のシールが貼られている。競技用の証。マイけん玉と同じものだ。
「簡単すぎん?」
 グリップ力が違いすぎる。このゴムみたいな塗装の玉で取得した段級位と、木目のすべすべな玉で勝ち取ったものが同じ価値だというのか。
 嫁が晩ご飯を食卓に並べる横で、けん玉を構えながら逡巡した。恐らく、この一般的なものを使えば次の準初段にも簡単に合格できる。灯台以外の技も問題ない。
 スマホでけん玉ショップを閲覧しながら考えた。素敵な色を購入したとする。それで技を決めたとして、無塗装のものでも成功する保証はない。
 心残りが生まれないだろうか。全てのけん玉で技を決められる自分でいたくないのか。段の取得が最終目的ではない。上手くなるためだ。
 スマホを消灯させて、マイけん玉で練習を再開する。
 準初段を取るためには、十回中二回灯台を成功させる必要がある。今のままでは微妙なところ。塗装は甘えというのは過言だが、無塗装で技が決められるということは、他のけん玉でも同様に決められるということだ。
 仕事じゃないんだから、自分の好きなやり方で上手くなればいい。自分がかっこいいと思える方法で。木目の玉が、カチリと小気味良い音でけん先に入る。
 
 
 
後編「大阪へ帰省」
 
 一年に一度は大阪へ帰省している。正直面倒くさいし、お金も馬鹿にならない。年末に一度だけというのが両親と僕の妥協点だった。三十一日には奄美に帰る。
 今年の帰省には四つの目的があった。
 一つ目は結婚指輪を購入すること。二つ目は、特撮作品の映画を見ること。三つ目は、可愛い甥っ子に会うこと。そして四つ目は、昔使っていたけん玉を持って帰ること。
 一つ目は難波の高島屋で叶えることができた。数々の店を見て回ったが、結局、海をテーマにした指輪を購入することにした。奄美で最も魅力的な「海」に敵うものはなかった。
 二つ目は仮面ライダーとゴジラの映画を見ることで叶えた。仮面ライダーはいつも通りの冬映画という感じだったが、ゴジラはこれまでのシリーズに変革をもたらす傑作だと思った。感動のあまりゴジラの貯金箱を購入した。
 甥っ子は三歳になるが、まだうまく言葉を話せない様子だった。ウンチのおもちゃで遊びながら、「おもろい」と、喃語と大阪弁の中間言葉を喋っていた。その他にも様々話していたが、母(妹)と旦那さんには聞き取れて、僕には判別できない声も多々あった。今後、一年に一度しか会わない僕らのことを認識して、おじさんと呼んでくれる日が来るのだろうか。
 その後、最近第二子を出産したという従妹の家に向かい、お祝いを渡してきた。やはり子どもはいいなと思う。
 四つ目。実家で羽を伸ばしていたとき、父に。
「昔のけん玉とかってある?」
 訊いたところ。
「あるよ」
 すんなり僕を二階へと案内した。
 父は自室の机から紙袋を引っ張り出して渡してきた。そこには、けん玉が四つ入っていた。綺麗めの赤色が三つと、傷だらけの青色が一つ。白状すると、僕はこの瞬間まで、昔使っていたけん玉が青色だということを忘れていた。それを持った途端に記憶が溢れてくる。何度も失敗してボロボロに剥げた玉、けん先の側面にはへこみがあり、幼い僕が口寂しい時に噛んでいたことが分かる。大皿と中皿のふちは欠けており、いかに雑に扱っていたかが分かる。当時、父親にすごいと言われるのが嬉しくて、休日の昼間なんかはずっとやってたな。夕方のアニメを見ながら練習していたのも覚えている。むしろ、けん玉以外で褒められた記憶がない。厳格な父だった。
 懐かしんでいる僕に対して。
「お父さんな、コロナの時、けん玉の検定受けたんや」
 僕はじっと目を細めて続きを待った。また父に負かされてしまう予感がした。
「ほんで合格してん」
 そう言ってけん玉を振り回す父に、「何級?」と訊いた。
「あんたも受けたん?」
 質問で返してくるところが父らしい。相手の出方を伺って、上から封じるのがいつも手だ。
 僕は正直に、受けたよ、と答えた。血は争えない、やはり親子だと観念した。遺伝とは恐ろしい。
「何級?」
 昔の僕なら機嫌を損ねて出ていっただろう。子どもに対してそうやって目を見開いてムキになったり、見下す準備をしていたり、勝ち誇る準備しているのがたまらなく嫌だった。テスト何点やった? どこに就職した? その後は決まって、嬉しそうに舌をチッと鳴らして、そうかぁーと含み笑いを浮かべる。お父さんの時はな、お父さんはな、と語り始める。
 けれど、今の僕はもう奄美にいる。顔を合わせるのも年に一度。せっかくだから父を良い気持ちにさせてあげようという気さえあった。
「一級」
 正直に告げた。父は初段かもしれない。
「一級? うそ」
 父は大げさに驚いてみせた。
「お父さん二級や」
 その答えに、ふと父の老いた顔が見えた。もう定年を過ぎた高齢者手前なんだと当然のことを思った。どこか腰が悪いんじゃないかと心配にもなった。
 しかし、すぐさま姿勢を正して。
「じゃあこれできるか?」
 と難し目の技をやってみせる父は、昔と何ら変わらなかった。
 すぐにこうして上に立とうとする。
 僕は何だかどうでもよくなってきた。
「あぁ、それはできひんな」
 続けて、じゃあこれはできるか? これは? と。よほど悔しかったのか、技をいくつも成功させる。できるまで何度も玉を振り上げる。
 それから、孫に対して得意げにけん玉を見せる場面もあったが、僕は黙って傍で見ていたし、母から、あんたもできるんちゃうん、と訊かれても首を横に振った。もう父の勝ちでいいと思っていた。
 勝負を放棄することができるのは僕が今、遠い奄美に住んでいるから。同じ屋根の下ならこうはいかない。プライドの高さで言えば母も同じだった。だから僕ら子ども三人は、親とのコミュニケーションをずっと拒絶していた。最低限のことしか話さないようにしていた。何を言っても否定され、上から抑えつけられるから。兄は今でも二階の自室に引き籠っている。僕は離島に逃げ、妹は旦那を拠り所にした。たまの帰省だからこそ、僕も妹も何の問題もなく談笑している。心の底は、正月時にも顔を見せない兄と同じだ。
 はっきりと分かる形で親に勝てたのはこれが初めてかもしれない。今後も段級を上げ続けようと思った。これは父と接する際の精神的余裕になり得る。
 そうかぁ、お父さん二級か。家を出てホテルに向かっている最中、ふと思った。一年に一日だけ会う父のことが段々と遠ざかっていく。あとは空港近くで一泊して、奄美に帰るだけ。家に泊まることもなければ、正月まで過ごすこともない。それは両親と嫁がまだ打ち解けていないことが所以だが、僕自身、無理に仲良くしてもらおうとも思っていない。なぜなら、僕らはもう奄美に住んでいるから。これは、両親と接する際の絶対的なバリアだった。
 今だからこそ、数十年後、もし介護が必要になれば、短期間でも休みを取って、駆け付けてもいいくらいには思っている。奄美に住んでいる、今だからこそ。

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