見出し画像

最強おばあちゃん伝説

6人きょうだいの2人目として、下4人の子守りと家事をしながら育ったおばあちゃん

自転車で爆走し、その結果カーブを曲がりきれず壁に激突し大怪我をしたスピード狂おばあちゃん
(後々にも受け継がれしスピード狂の血)

青春が戦争と共にあったおばあちゃん

小学校を出て実科高等女学校に進学し、家政(縫製とか)を学ぶも、戦中の物不足の中で布がなくて布の代わりに和紙を縫っていたおばあちゃん
(縫い終わりの糸も抜いて再利用)

家から学校まで、山越えを挟む片道4キロの道のりを、下駄履きで歩いて通学していたおばあちゃん

膝下が埋まるくらいの豪雪の冬、山越えの通学中に下駄の鼻緒が切れてしまったので、両手に下駄をさげて裸足で雪を掻き分けて学校に行ったおばあちゃん

空襲帰りのB29に見つかって機銃掃射を受けるも、麦畑の中に逃げ込んで九死に一生を得たおばあちゃん

学徒勤労動員になって、授業を受ける代わりに日々工場で飛行機部品を作ってたおばあちゃん

16歳になる年に終戦を迎え、玉音放送を聴いて「悔しいけどこれでやっと勉強ができる」と思ったおばあちゃん

女性が外で働くのがまだ珍しかった時代、卒業後に統計事務所に勤め、計算尺とか機械式計算機(ガリガリするやつ)を駆使してバリバリ働いたおばあちゃん

恋愛結婚がまだまだ珍しかった時代に、職場の同僚だったおじいちゃん(農家の長男)と、周囲の猛反対を押し切って結婚したおばあちゃん

嫁いで早々、神経質な舅と厳しい姑と夫の弟妹6人の世話をしながら、全然やったことない畑仕事と一町歩の田んぼの面倒をみることになったおばあちゃん

嫁いびりと呼ぶにはあまりに過酷な仕打ちの数々(臨月のお腹を抱えて田んぼの草取りをさせられる他多数)にひたすら耐え続けたおばあちゃん
(座右の銘は「なにくそ」)

水道がまだ来ていなかった頃、家の近くの清水が湧いてるところまで毎日桶を担いで行って、天秤棒に水桶をさげて何往復もして風呂を沸かしていたおばあちゃん

「人生で一番嬉しかったのは、家に洗濯機がきたとき」と嬉しそうに話していたおばあちゃん

「嫁にきたころ、農機具のエンジンのスターターロープを何度引いてもかからないのを、近くで働いてた線路工さんが見かねてかけに来てくれたのよ」とこれまた嬉しそうに話してくれたおばあちゃん

散々いびってきた姑さん(しをはら曽祖母)が老人性鬱で庭の柿の木に首をつって死んだとき、第一発見者になってしまって、でも「この姿を息子や夫に見せたらいかん」とたった一人で遺体を下ろしたおばあちゃん

全然そんなわけなかったのに「あの家の姑さんが死んだのは嫁さんの性格がきついからや」と隣近所に陰口を言われ、それにも黙って耐えたおばあちゃん

草野球して遊んでるときに、息子1(※しをはら伯父)が息子2(※しをはら父)の頭をうっかりバットでフルスイングしまい、意識不明の死にかけた息子2を抱えて名古屋の大学病院に走ったおばあちゃん

息子2が生死の境を彷徨ってる間、舅姑が勝手に葬式の準備を進めていたことに対して晩年までずっとマジギレしていたおばあちゃん

バカ息子(※しをはら父)が「通過する汽車にどれだけ近付けるか」という度胸試しをやって「目になんか当たった」と言ってギャン泣きしながら帰ってきたので、担いで近所の病院に走ったおばあちゃん

線路脇で畑仕事をしていたら、貨物列車が突然とんでもない音を立てて急ブレーキで止まったので「あのバカ息子(※しをはら父)がまたなんかやらかしたのか!!!!」と鍬を放り投げて走ったおばあちゃん

高2になったバカ息子(※しをはら父)が厳冬期登山に挑むも下山予定日に帰宅せず、"すわ遭難か"と大騒ぎになったとき、"倅の不始末の責任は親が取るもんだ"って山装備を整えて捜索隊に加わろうとしていた当時50代のおばあちゃん
(通称「雪山の山頂どんだけ加熱してもボンカレーが凍ってて溶けない事件」)

大学生になった息子(※しをはら父)と共に初春の山に登り、帰路は雪の残る斜面をソリで滑り降りて帰ってきたという逸話が残るおばあちゃん
(「あれは本当に楽しかった」そうです)

ものを大事にすることにおいては右に出る者のいなかったおばあちゃん
(例:すりこぎが買った時の半分のサイズになるまで使う、雑巾は原形をとどめなくなるまで使う、50年選手の台所道具たち多数)

冬場は外で火を起こして豆炭を焼いて、こたつを温めてくれたおばあちゃん

ガス給湯器がつくまで、毎日夕方になると火を起こして、薪ボイラーでお風呂を焚いてくれていたおばあちゃん
(※10年ちょい前まで薪ボイラー現役でした)

孫の髪が伸びると、庭に椅子を置いてばあちゃん床屋を開店し、超絶おかっぱショートカットを施してくれたおばあちゃん
(※当時のアルバムを見ると幼少期の孫はみんな同じ髪型)

足踏み式ミシンを駆使して孫の服を仕立て、暇があれば縫い物と繕い物をし、家族の衣服のかけつぎに心血を注いでいたおばあちゃん

毎朝起きて黒檀の戸棚を拭き上げるところから始まり、広すぎるほど広い母家の掃除を日々完璧にこなしていたおばあちゃん

神棚のお世話から朝晩の仏様のおつとめまで日々欠かさなかったおばあちゃん

定年退職したおじいちゃんがブドウ畑(長年の夢)をやり始めたとき、1本100キロ超のコンクリ支柱を何十本も、共同作業で埋設したおばあちゃん

味噌、たまり醤油、梅干し、沢庵、マムシの焼酎漬けなど、ありとあらゆる保存食(発酵食品と漬物)を極めていたおばあちゃん

春にはタケノコを掘り、花を育て、イチゴを摘み、夏は梅の実と野菜、秋にはブドウ、ありとあらゆる作物を育てていたおばあちゃん

キングオブ生き字引き、お作法しきたりマスターだったおばあちゃん
(おばあちゃんに聞いて解決しなかった問題なし)

孫(※しをはら従姉)がピアノを習い始めたとき、「家で孫に教えなならんから」と言って同じくピアノの練習を始めた当時50代のおばあちゃん

家に来た当時の仔犬のモコさんが下痢ばっかりしていたので、毎日せっせとお粥を炊いて鰹節と整腸剤を混ぜて食わせていたおばあちゃん

納屋に出没するネズミを目の敵にしていたおばあちゃん

家で飼ってた歴代の犬猫たちのこと、こよなく愛していたにも関わらず呼び方がなぜか「犬畜生」だったおばあちゃん

池の鯉をこよなく愛し、ポンプ事故による水流途絶(酸欠)で全滅したときには「しっかりせえ!死んだらいかんに!」と最後まで鯉を励ましていたおばあちゃん

1歳半の孫(※しをはら)が高熱出してフーフーいってる横で息子と一緒に「このままだと頭が馬鹿になってまうで、どうするどうする」と揃って大パニックに陥っていたおばあちゃん

幼稚園に通いはじめた孫の、泥あそびで味噌煮込み色になった着替え3セットを毎日洗濯してくれたおばあちゃん

雨の日も風の日も真夏も真冬も毎日欠かさず、幼稚園までお迎えに来てくれていたおばあちゃん

孫が調子乗って焚き火に枯れ草をくべまくってボーボー燃やしてるところを後ろから監督してくれた気長なおばあちゃん

いつもお手製のホットケーキ(市販のミックス粉じゃなくて、うどん粉とふくらし粉を水で練って焼く素朴な味の)を振る舞ってくれたおばあちゃん

孫が菓子作りにハマり、ホットケーキミックスをオーブンで焼いただけの半生失敗作を量産しても「おいしいでよ」と言って食べてくれていたおばあちゃん

孫が怪我したり病気したりするたびに神社にお詣りしてくれていたおばあちゃん

孫の通知表や作文の表彰状を仏壇に飾っては「この子は勉強がよおできる」と言って拝んでくれたおばあちゃん

高校生になった孫(※しをはら従兄)がヤンチャなお友達を家に連れてきたとき、「そんな歌舞伎のような頭して!!!!」と叱りつけていたおばあちゃん
※歌舞伎のような頭=獅子頭のこと

息子たちに対しては「なんか悪いことしたら飛び上がってでも頭こいたる」が口癖だった身長140センチの小柄なおばあちゃん
(※頭こく=岐阜の方言で「頭を叩く」)

3か月に一度くらいのペースで家が揺れるくらいの家庭内大喧嘩が勃発して、しかし一歩も引かなかった血の気の多いおばあちゃん

2022年のお正月もおせちの煮物は全部作った 煮物のスペシャリストだったおばあちゃん

おじいちゃんのお葬式のあと、ほぼ手つかずの状態だったオードブルの中身を全部「煮物」にしてくれたおばあちゃん

孫目線からするとずっと喧嘩してたイメージだったけど、亡くなってからはおじいちゃんのこと「あんなに優しくて良い人はいなかった、もっと長生きしてほしかった」ってベタ褒めだったおばあちゃん
(喧嘩じゃなくて痴話喧嘩だった説)

70代終盤、畑仕事の途中で心不全を起こすも、数百m這いずるようにしてなんとか家まで戻り、近所に勤めていた嫁(※しをはら母)に電話、その後ペースメーカーつけて九死に一生を得たおばあちゃん

80代までバリバリ登山行ってた屈強なおばあちゃん

80代のときに「70代のときは本当に若かった なんでもできた 体力気力が満ち溢れていた」って言ってたおばあちゃん

いつも旅先で不思議なお土産を買ってきてくれてたおばあちゃん

通販で買う物のチョイスがなんかずっと謎だったおばあちゃん
(理由は聞けずじまい)

成人して就職した孫にもお年玉とかお小遣いをくれたおばあちゃん
(全部封開けずに貯めてあるけど、もうこれ一生手をつけられんやつ)

若い頃からずっと資生堂を愛用し、「年寄りは見苦しいのが一番いかんから」というのが口癖で、最後の日まで毎日綺麗にお化粧をしていたおばあちゃん

朝晩の散歩が日課で、体力自慢で、ずっと背すじがシャンとしてたおばあちゃん

つい一昨日まで庭で草むしりをして「無理したらあかんて」と家族に叱られていたおばあちゃん

「身体が鈍るとあかんで」「働いとらな」が口癖だったおばあちゃん

「長く生きてきて、いい事も辛いことも沢山あったけど、おかげさまで今は楽させてもらっとる」と嬉しそうだったおばあちゃん

本当に働くことが生き甲斐だったおばあちゃん

「ボケたくない、寝付いて人の世話になりとうない、苦しまずにポックリ逝きたい」がずっと口癖で、大の病院嫌いだったおばあちゃん

負けず嫌いで、我慢強くて、厳しくて優しかったおばあちゃん

亡くなる3時間前まで普通に元気だったし、なんなら「救急車に乗りたない、呼ばんでくれ」って言って、孫におぶわれて病院に行って、それがお別れになったおばあちゃん

心停止して6分後に、突如心拍と自発呼吸が戻ってお医者さんや家族皆を驚かせた、最後の最後までタフだったおばあちゃん

おばあちゃん


おばあちゃん

急なお別れになってびっくりしています。まだ全然現実味がありません。
多分おばあちゃん自身が今一番驚いているのではないかと思います。
ただでさえ小さなおばあちゃんが、年々また細く小さくなっていく気がして、でもそれを直視するのはやっぱり怖かったです。
おばあちゃん、「おれは百まで達者で生きるで」が口癖だったから、なんとなくそれまでは生きててくれるんじゃないかと思ってました。仮に、百歳までは無理でも、もっと、グライダーが軟着陸するみたいに、ゆっくりと「そのとき」が来るんじゃないかと、そうであってほしいと願ってました。

病院に着いてからあっという間のことだったと聞きました。最後は苦しくなかったですか。それだけが気がかりです。でも、かねてから言っていたとおり、最後まで認知症とは全く無縁で、骨折も転倒も一度だってせず、入院もせず、下の世話もされることなく、最後の日まで、おじいちゃんと共に70年間守り続けた家で、息子夫婦と孫夫婦、5人の曾孫たちと共ににぎやかに過ごせたこと、おばあちゃんの願い通りだったらいいな、と思います。

そして、おじいちゃんのときみたいに、一族総出で、というわけにいかなかったけど、「いくつになってもかわいい」「いくつになっても子は子やで」と言ってた息子二人が最期に間に合って、本当に良かったです。

生後2か月でお母さんは職場復帰、以降おばあちゃんのところに預けられ、生粋のじいちゃんばあちゃん子として育ち、その結果として今の私が在ります。おかげさまで、一度だって寂しいとか思ったことはありませんでした。

おばあちゃんはいつだって最高で最強でした。何にも屈せず、怯まず、己を鼓舞して突き進む、その力強い姿は、「小さな鉄人」と呼ぶにふさわしいものでした。後ろ姿で子孫一同を導いてくれました。まさしく苦難続きの人生だったかと思いますが、辛いことよりもいいことの方が多かったのなら、なによりです。

出来の悪い孫だったけど、全身全霊で愛してくれてありがとうおばあちゃん。
『底なしの自己肯定感』『とりあえず何とかなるだろうという根拠のない自信』、人生をイージーモードにする最強の武器を、私に授けてくれたのは間違いなくおばあちゃんでした。めちゃめちゃ感謝しています。

でもやっぱり孫は寂しいです。ありがとうが言い足りない。こんな急に、居なくなっちゃったって言われても信じられない。
聞いてたかもしれませんが、曾孫ちゃん3号も葬儀の席で「ひいばあちゃん、生き返って、マジで」って言って泣いていました。孫3号もまったく同感です。頭では分かってるけど理解が追いつかない。

今日まで言わずに居ましたが、自分の人生において一番たくさん見た悪い夢は「なんらかのアクシデントによりおばあちゃんが死んじゃう夢」です。これ小学生の頃からずっと見続けてて、最悪の目覚めが約束された夢なのでホントに嫌でした。これが今後もれなく『悪い夢』ではなく現実になるのか………と思うと気が遠くなります。

おばあちゃん。娘として、嫁として、妻として、母として、祖母として、曽祖母として、そしてなにより揺るぎない自我を持ったひとりの人間として、あなたが必死に生きた92年と8ヶ月と29日。その後半戦を共に生きられたことを誇りに思います。長い間お疲れ様でした。これからもよろしくお願い致します。

おばあちゃんは、私のおばあちゃんであり、もうひとりのおかあさんでした。

合掌。

追伸:彼方ではおじいちゃんとどうか仲良く。犬のマリちゃん、ゴンちゃん(初代、2代目)、モコさんと猫のミーちゃんによろしくお伝え下さい。

『白と黄色のまだら模様の巨大なネズミ』も一緒にいるかもしれませんが、それはおばあちゃんが生前目の敵にしていた"憎きネズ畜生"ではなく、曾孫ちゃん2号と3号がずっと大切にしていて一昨年天に召されたゴールデンハムスターです。追い回さないであげてください。草用の火炎放射器で焼かないでください。

補足:おばあちゃん、生き様やエピソードだけでなく遺伝子までも最強だったので、2人の息子としをはら含めて4人の孫、5人の曾孫への遺伝っぷり(特に顔のパーツ)がすごくて。おばあちゃんの血を受け継いだ人間は大体鼻の形と頬骨とフェイスラインが同じです。なんと曾孫の代に至ってもです。どういうことなのか。強すぎだろ。

まああの、そういうわけなので「死んじゃったけど消えてなくなったわけではない」は本当ですね。『ひとりの老人が死ぬことは、ひとつの図書館が燃えてなくなることと同じだ』なんて言いますけど、確かに死によって失われるものはあまりに多いんですけど、鏡を見れば、おばあちゃんが生きた証がそっくりそのまま存在しているので。私という人間がまだ生きているので。これは祝福だと思います。


この記事が参加している募集

おじいちゃんおばあちゃんへ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?