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東京

もっとちゃらんぽらんだったら許されたのかな、と地元の大学に通う友達に言われたことがある。
友達には 私立高校に通っている兄弟がいて、金銭的な問題で地元から出る余裕はないのだそうだ。

地元の大学に行けないくらい もっと頭が悪かったら、外に出られたのかな、と言われたとき、あーなんでこの土地に生まれちゃったんだろうって、閉鎖空間に閉じ込められた この世界の歪みに気づいた気がした。

真面目にがんばってきた人にこそ多くの選択肢が開けると思っていたのに、真面目だからこそ地元を離れることは許されなかった。いろんな人の「こうしてくれたらいいな」を汲み取って、義務にした。それはたぶん 自分の意思ではなかったのに、当時は疑いようもなくそれが前提にあった。


高3の秋頃、周りが志望校を決めていく中、私だけが何もなかった。ハーバード大行くんだ~と笑いながら何もないのをごまかしていた。地元で一生を終わりたくない、と夢を語る友達の前で、私はここから出られないんだろうなと思っていた。

模試の志望校の調査票は地元で行ける大学をすべて書いても埋まらないくせに、欄を埋めて提出しないと返却されてしまうから、いつも 全国の大学一覧冊子を目をつぶってパラパラめくり、ここだ!と指を指したところで空欄を埋めていました。


その頃、「この割れきった世界の片隅で」というnote がTwitterでバズっていた。(題名が思い出せず、国連目指す高校生 地方格差 バズったで検索したらちゃんとヒットしてくれた)

これを読んだとき、都会に住んでいる人たちが自分の思っていたより、選択肢に溢れた世界で生きていることに絶望した。東京で生きている人間は、幼い頃から目の前にたくさんの選択肢があって、それが積み重なったとき、もう高校生の時点で人生のキャリアに差がついているのではないかと思った。彼ら彼女らは私たちよりずっと先の世界を生きていることを知ってしまって、これからどうするべきなのかわからなくなった。

好きなことができるのって、そんなに簡単なことじゃないよ。

同級生にこのnoteの内容を話してみたら、「私は、地方だから学べないっていうのは甘えだと思う」と言われた。
その意見も納得できた。自分かわいそうと嘆いているだけ、と言われれば、何も言えないし 地方を理由にして自分のできないことを言い訳しているだけなのかもしれない。言い訳くらいさせてやれよ/させてくれよ!とは思うけど、努力して成績が良かったら給付奨学金もあるし、どこにいたってなんだってできるのかもしれない。
ただ、土地による「ふつう」が違ってしまったとき、価値が低いのは私の方で 進学も就職も、恵まれていると感じるほどの「ふつう」と正面から向き合ったとき、私は勝てないな、と思った。

その同級生と私で大きく違っていたところは、地元を離れることに親の賛成を得られているかいないかということで、親の賛成を得られている友達だからこそ、地方にいても可能性を感じていたのだと思う。
だけど、もし、私がもっと別の場所で生きていたら、県の境を超えることに何の躊躇もなく生きられたら、もっと違う人生があるのではないかと ずっと考えていた。
その時、同級生は、地元から出ることを勧めてくれた。出られるよ、出た方が良いよ!と簡単に言う彼女が憎らしく、またその無責任さに救われました。

どの大学に行くかも決めていなかった。ただ、地元から出たかった。この世界で終わりたくなかった。
11月にある三者面談までに、志望校を確定させなければならなかった。タイムリミットが迫っていた。

これまで親に対して、少しも地元から出る可能性を示したことはなかった、話の切り出し方がわからなかった。まず、行けそうな大学のパンフレットを取り寄せ、母親に郵便物を取らせるように仕向け、居間でそれを堂々と広げ読んでいる自分の姿を見せつけた。「ここ行こうかな~」とつぶやき、母親のことをちらっと見ると、笑いながら流され 失敗した。

これはもう正攻法で、壮大な夢を熱く語るしかない…と思い、「世界変えちゃおっかな~って思って…」と話を切り出すと、どうやって変えるの?将来何になりたいの?と聞かれて、沈黙、失敗した。

実際のところ、夢なんてないのである。大学なんてどこでもいいんだから。でも、母親は将来の夢をはっきり決めて、その夢がそこで 本当に実現可能なのか示すことを求めているようだった。

私の母も、また、田舎から逃げてきた人だった。母の実家は農家を営んでいて、高校は農業高校一択、むしろ農業高校しかない地域に住んでいた。母はずっと農家になりたくなくて、高校の願書を提出する前日、突然志望校を変え地元から出ることを決めたそうだ。地元から離れた商業高校に通うことで、卒業後はすぐに就職できるようにした。そうやって明確に将来のビジョンを決めて地元を離れたから、私がなにも決めずに地元を離れることが理解できなかったのだと思う。やりたいことをたくさん大学で見つけてください、と高校の先生たちは言っていたけれど、私の家庭からしたら大学はやりたいことをするために行くところだった。だから、私は思ってもいない夢を真剣に語ることで、将来のビジョンがあるということを、過去の母と同じように示さなければならなかった。

今思えば全て嘘だったな、と思えるようなことを何回も繰り返し つぶやき 推敲する。なんだかその気になってきて、「世界変えるぞ!」と思っていた高3の秋、最強だと思っていた、一番脆かった。


何度も説得するも親は全然許してくれなくて、結局説得できないまま、三者面談を迎えた。
三者面談の日、担任が母親に 地元から出ることはどう思われていますか、と聞いた。
しょうがないんじゃないんですか、と言われた。驚いた。許されたと思った。だけど、仕送りはしないと言われた。生活費はすべて奨学金でまかなうことになった。
しょうがないから許します、ではなく、どうしようもないし勝手にやってくださいという意味だと思った。許しではなく、諦めだった。

そうやって大半が嘘のような夢を掲げ、反対を押しきって地元から出ることにした。
ここまで親として出てきたのはすべて母親のことであり、私は父親と一度も進路の話をすることはなかった。何も言わずに出て行った。

しかし、ここから人生大誤算だったのは、私が学力的に合格できそうで かつ興味のない分野(医療や経済・法学など1ミリも興味がないので)以外の大学を ギリギリになって志望校にしたことと、コロナ禍で実際にその土地を見に行くことはできなかったために、よく知らないまま、なぜか周りが田んぼしかない田舎に住むことになっていたことで

高い建物がないから、空が大きく見えます、その空が綺麗だと感じてしまったら、この土地を受け入れたことになってしまうのがこわくて、空を見るたびに、死にてーと思うようにしています。
バスが1日8本(日・祝は4本)しかなくて、授業の時間と合わないから大学までは自転車通学で 自転車に乗っているとき、向かい風で前髪はすべて崩され、寒さで指も顔も真っ赤になって そんな自分の顔をトイレの鏡で見たとき、なんでこんなに苦労してこんな場所にいるんだろうと思った。

地元から離れたくせに、この場所に愛着もない私は、どこにいることも許されていないように感じた。なにもない自分を置いてくれる場所なんてないから、どこかに行きたいと思った。自由になりたかった。自由の象徴が東京だった。


ミスiDというオーディションで、私は一貫して東京に行きたいと言ってきた。
ミスiDの最終面接で東京に行きたいと、ずっと思っていた。
一人の力じゃ東京に行けなかった。東京に行くことで、簡単に東京に行けてしまうと気づくのがこわかった。そうやって気づいてしまったら、わたしはどこに自由を求めていいのかわからなくなってしまうから、世界が狭いということに気づいてしまいたくなかった。東京に行くきっかけがほしかった。

わたしはここから離れたいだけで 自由になりたいだけなのかもしれない。
夢がなかった。やりたいことはなんですか、とオンライン面接で聞かれたときにうまく答えられなかった。

土地のしがらみを振り払って夢を持てるようになりたい。地元で生まれたことを、この場所で生きることを、なんでもないものにしたい。

だから、東京で生きてみたいのかもしれないな、と思った。


最近、東京がどんな世界なのか期待する度に、現実の世界にはなにもない田舎が広がっていて、そのギャップが激しすぎて くるしくなる。東京以外の場所で生きていてもちゃんとその土地を愛せている人を見ると、自分が何なのか分からなくなる。

だけど、エントリーシートに「東京に行きたい」と書いてあることが、ちゃんと自分を道に戻してくれて ああ、自分は東京に行きたいんだった、と思い出すことができます。

とりあえず、今はバイトをして 東京に行くための貯金をしています。



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