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安達ヶ原

いまは昔
奈良時代に入って間もない頃の話
陸奥国安達ヶ原をゆく一人の僧がいた
名を祐慶と言った
祐慶は修行のために紀州の熊野を出て諸国を巡っていた
このあたりは物寂しい野原である
すでに日は沈んでいる
宿を求めてあてどもなく歩いていると
大きな岩の穴を住まいとしている岩屋が目に入った
ほかに人が住んでいる家らしきものは見あたらない
あそこにしようと思い木の枝に覆われた入り口に近づき声をかけた
なかから出てきたのは恐ろしく歳を取った老婆だった
だが一夜の宿を乞うと中に入れてくれた
火が沈むとたちまち冷気が降りてきた
薪をとってきましょう
と老婆は言った
しかしあのムシロの向こうは見ないように
と奥を指さした
祐慶がそのほうを向くとボロボロのムシロが岩屋の奥を隠していた
老婆は出て行った
ひとりになった祐慶はおそるおそるムシロをまくりあげた
見るな といわれたらどうしても見たくなるもの
そこにあったのは夥しい人の屍と白い骨だった
さてはこれが噂の鬼婆か
このあたりには旅人を襲って食うという鬼の噂があった
ここはその住処であったのだ
祐慶はソロソロと岩屋から逃げ出した
すると
「みたな」
と恐ろしい声が聞こえた
祐慶は走り出した
振り向くと包丁を手にして鬼婆が追ってくる
その包丁はかつて自分の娘を殺めたものだった
鬼婆はその時は
いわてという名の老女だった

いわては
もともとは都で高貴な姫に使える乳母だった
姫は啞であった
生まれつき口がきけなかった
あるとき占いの者がこう言った
この病を治すには赤ん坊の生肝が必要です
いわては赤ん坊の生肝を手に入れるため旅に出た
東へ東へとくだりこの安達ヶ原まで流れてきた
ここで赤ん坊を孕んだ女を待ち構えた
何年かしてある旅人の夫婦が宿を求めてきた
女の腹は膨らんでいた
いわてが隙を窺っていると女が産気づいた
いわては夫に産婆を呼びに行かせた
男が出かけるといわては女に包丁で切りつけた
そして赤ん坊を取り出し生肝を取った
だがその女が握っていたお守りに見覚えがあった
それはいわてが都に残してきた自分の娘に与えたものだった
いわては娘と孫を同時に手にかけたと知った
いわては狂って鬼となった

その鬼婆が
娘と孫を切った包丁を手にして祐慶を追ってくる
鬼婆はだんだんと追いついてくる
祐慶は懐から那智神社のお札を一枚取り出した
振り返りざまそれを投げつけた
「山となれ」
祐慶が叫ぶとたちまち山が現れた
だが鬼婆はかるがると山を越えてきた
祐慶はまた懐からお札を取り出して投げつけた
「谷となれ」
たちまち地面が裂けて谷となった
だが鬼婆はあっという間に谷を降り駆け上がってくる
祐慶は最後のお札を投げた
「川となれ」
だが鬼婆は水面を飛ぶように跳ねて追ってくる
祐慶は走りながら必死に如意輪観音に祈った
するとはるか空の上に光り輝くものが現れた
観音菩薩だった
観音は破魔の弓に矢をつがえると
ひょうっと放った
その矢は金色の筋を描いて鬼婆を貫いた
鬼婆は倒れた
祐慶が近寄ってみると小さなシワだらけの老婆だった

いわては葬られた
その場所は黒塚と呼ばれた
そこは今でも石と枯れ草だけの
風がふきすさぶ荒れ野である

(了)

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