石子詰
(角川日本の伝説47鳥取の伝説より)
天正八年 すなわち1580年六月のこと
羽柴秀吉は織田信長の命を受けて
西に軍勢を動かした
そして吉川経家が守る鳥取城を囲んだ
秀吉は兵糧を絶ち
昼夜問わず鉄砲を打ち込んだ
城内の人々は極限に追い込まれた
飢餓に苦しむ人々は
敵方に助けを求めた
だが悉く味方の鉄砲で撃ち殺された
その屍の肉が奪い合いになったという
このような地獄が四か月続いた
ついに城は落ちた
秀吉側から城兵たちに米が振る舞われた
しかし空腹のあまり
それを食べた兵士が次々と
胃の痙攣を起こして倒れた
そうして生き残ったうちの約半数が
死んだという
そんな
「鳥取の飢(かつ)え殺し」
と言われた落城から数年後のこと
ある山伏と女が一人の侍を殺したので
処刑されることになった
殺された侍は鳥取城を治める秀吉方の
宮部という家老の配下であった
そして病弱であった
その妻は夫のために一人の山伏を招き
病魔退散を祈る加持祈祷をさせた
だが なんども出入りしているうちに
山伏と女は懇ろになってしまった
「殺そう」と
二人は床に伏せっている侍を手にかけた
二人はこの事を隠し通そうとした
だが すぐに露見してしまった
近隣の人々の噂から
藩の取り調べが入った
そして家の床板の下から
土に埋められた屍が見つかった
この山伏は鹿野という
鳥取の隣の領内に住んでいた
鹿野には参光院という
多数の山伏を抱える宗門があった
このことが鹿野側の耳に入ると
参光院から使いの山伏が鳥取城に来た そしてこう言った
「まことこれは我が宗門の恥
当方において罰を与えますので
どうぞこちらにお引き渡しを」
だが鳥取側は
「これは当藩で起こった事
当藩で裁くのが筋」
と 引き渡しに応じない
こうして
藩の境界線を超えた事件の後始末が
なかなかつかなかった
鹿野の領主は鳥取を支配する秀吉側を
逆なですることはしたく無かった
なのでこの問題を放置していた
業を煮やした鹿野の参光院は
長老の住職を鳥取に送ってこう述べた
「まことに面目もござりません
つきましてはこの大罪人は
我が山伏の作法による
罰の修行に充てたいと思います
今一度 引き渡しをお考え頂けまいか」
このしつこさに鳥取側も妥協した
「ならば
罪人を当藩の外に出すことは出来ぬが
こちらの領内で処罰することはよろしい
そちらの作法で存分にやられるがよい」
と云った そして検分の者を付け
その見届けをして始末とすることにした
数日後 侍殺しの山伏と夫殺しの女は
鳥取城下の湊川の河原に引き出された
河原には二つの深い穴が掘られていた
後ろ手に縛られた二人が
それぞれの穴に蹴落とされた 河原には
白装束の山伏たちが群がっている
集まった見物人たちは
竹の垣根の向こうから
何が始まるのかと息を詰めて見守った
だが穴の中の山伏は知っていた
何が起こり どうなるのかを
山伏たちが口々に何かを唱えながら
河原の石を拾った
そして次々と穴に投げ込んだ
石子詰めであった
穴の中の女は悲鳴を上げた
山伏たちは片手に持った錫杖を
ジャラジャラ打ち鳴らしながら
石を投げ続けた
あまりの惨さに見物に集まった人々は
ひとり またひとりと去った
だがその耳には
投げられた石の音がいつまでも残った
やがて二つの穴は
二つの小さな石の山となった
山伏たちは去って行った
最後の一人が石の山の上に土を被せ
小さな柳の枝を挿した
その枝は大きく育ち
のちに柳倉総門の前の柳となった
この枝垂れ柳の下には
夜な夜な男と女の亡霊が現れた
その為
この柳の土手を通る者は
誰一人いなかった と言われている(了)
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