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江戸古典怪談「エグチ殿」


(現代・堂宇塔廟を破り報ひを受ける事)
  『片仮名本・因果物語 1692年』       

今の鳥取県中西部が、かつて伯州と呼ばれていた頃。

この地に、若狭から来た江口という一族がいた。
人々は、代々の当主を江口殿と呼んでいた。
その十六代目は、文禄の役にて討ち死にした。
文禄の役とは、秀吉の朝鮮出兵である。
江口の家は、十七代目になって滅んだ。
その十五代目を葬った塚が、泊という所にあった。

元和(げんわ)年間のとき。

この泊の代官で、次郎兵衛(じろうびょうえ)という者がいた。
この男の屋敷の上の土地に、江口殿の塚があった。
次郎兵衛は常々、そのことを嫌っていた。
それである時、人をやって塚を掘り崩した。
塚の底まで三メートル余りも崩し、その土を悉く捨ててしまった。
すると、たちまち次郎兵衛は病に倒れ、声も出なくなってしまった。

家の者、一族みな集まり、驚いて次郎兵衛を問い詰めた。
そして、

「おそらく、掘り崩してしまった塚のヌシの祟りであろう」

と言い合った。
そこでこの土地の謂れに詳しい年寄りたちを呼んで、この塚のヌシのことを聞いてみた。
年寄りたちは、次郎兵衛の顔つきを見て云った。

「この顔の色、眼差しの形。
間違いなく十五代目の江口殿じゃ。
江口殿が次郎兵衛に取り憑いておる。
しからば、我らのような者どもでは、直に物を申すことは出来ぬ。
江口殿の菩提寺であった寺の、坊さまに頼むのじゃ」

間も無く、誰かが僧侶を連れて来た。
すると、次郎兵衛に取り憑いた江口殿が、僧を前にして口を開いた。

「貴僧ガココニ居ラレル間ニ、全テヲ申ソウ。
コノ者、我ガ眠ル塚ヲ掘リ崩シ、ソノ土ヲ穢シタ。
口惜シイ限リデアル。
我、コノ者及ビコノ一族ノ者共、全テ取リ殺スベシ」

憤った声が響いた。
次郎兵衛の一族の人々は驚き嘆き、さまざまな言葉を尽くして詫びを言った。
しかし赦しの願いは、叶わなかった。
が、皆で終日詫び言を言い続けると、ようやく一族の者たちの死は赦された。

ほっと安堵のため息を漏らすと、
「ダガ、コノ男ダケハ片時モ延バス事ハ出来ヌ」
と低い呟きが聞こえた。
すると、たちまちその次郎兵衛の首がガクリと垂れた。

皆が近づくと、もう死んでいた。

(終わり)

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