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子供部屋おばさん予備軍のわたし

子供部屋おじさんという単語をご存知だろうか?

わたしは先日、夕方のワイドショーで初めて知ったのだが、それなりにショックだった。なぜなら、自分の将来にも有り得る生活様式だからだ。

「子供部屋おじさん」は、就職してもずっと親に依存し、子供部屋に住み続けているおじさんのことである。依存している、というのがポイントで、家族の生活を支えて親の面倒を見ている人はこの枠には入らない、らしい。

ワイドショーに出ていた例では、就職しているおじさんが親に経済的に依存していたが、これから修士課程に進んで就職するつもりの私は、経済的には自立できる、はずだ。そう信じたい。しかし、私の場合は精神的な依存度が同年代の人に比べて格段に高い、と感じている。今は下宿していて家族とは別々に暮らしているが、何かあったら最初に電話するのは実家だし、むしろ何もなくても電話をかける。「家族と仲が良くていいね」と言われることもあるが、見栄を張らずに接することが出来るのは家族だけ、というだけのことだ。友達のことは大好きだけど、だからこそ少しでも好かれたいし、彼女たちに見合う人間として振る舞いたい。そういうわけで、私はもっとも気楽に接することが出来る母親への依存度がめちゃんこ高い。

まあ実際のところ、今はかなり物理的に遠いし、このまま今の大学から就職してうまくいけば、一生実家に住まうことは無いだろう。

でも、最初の就職先でうまくいかなかったら?

わたしは弱い人間だ。パワハラやセクハラ、労働基準法違反などが蔓延るブラック企業にうっかり就職してしまっても、その場で声を上げて闘うことはないだろう。ブラック企業で声を上げても、すでにその状況に耐えられない人は辞めているので、孤立するばかりだ。わたしは闘うのに向いている人間ではないので、辞めることしかできない。辞めたら辞めたで、うまいこと再就職できる自信もないし、おそらくその頃には精神を病んでいて一人で暮らせるような状態ではないだろう。そんなこんなで一旦実家に戻り、そこで再就職先を探すであろうことは見え透いている。

ああ、嫌だな、子供部屋おばさんって響き。

最初に説明を聞いたときは、なるほど分かりやすい名称だとは思ったけれど、自分がその枠にカテゴライズされることを考えるとなんだかとっても惨めだ。せめて「はじまりの街の勇者(Lv50)」とかにしない?むしろダサいか。

子供部屋おばさんと言われないためには、やっぱり精神的に自立せねばならない。でも精神的な自立は私にとって孤独と同義だ。今は友達がいるけれど、彼女たちもいつかは結婚する。子供だっているかもしれない。彼女たちが幸せであれば、そして4年に一度くらいは会ってくれればとても嬉しいのだけれど、今のような関係ではいられないだろう。その頃までに、だれにも依存せずに行きていられるほど、わたしは強くなれているのだろうか?


雨の日に一人でバラエティ番組を見ていると急に虚しくなって、こんな文章を書き連ねてしまった。海外のドッキリ動画をおおげさにアテレコしている映像にすら、なんだか悪意を感じてしまう。お酒でも飲んでさっさと寝てしまおうか。そう思いながらも反応欲しさにちゃっかり公開してしまうあたり、まだまだ修行が足りないんだろうな。

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