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普通の大学生


大学に入ってから、生きづらさを感じることが増えた。生きづらさ、というか、息苦しさというか。大学生ばかりの職場でアルバイトを始めたことも原因の一つかもしれない。都会の大学生というのは思いのほか均質化されていて、「大学生は個性があふれていて自由」という思い込みは幻想であったと知った。

私は田舎の公立中学から高専に入り、大学に編入した。たぶん、学位を得るには最低コストのルートだ。高専は1学年が200人程度だった上に、女子はそのうちたったの40だったので、人間関係は狭かった。しかしさまざまな人がいた。性格、家庭環境、体質、みんな違っていたが、めいめいが自分に合った人とだけつるみ、その他は関せずというところがあった。

しかしちょっと都会の大学に来てみると、そこそこな進学校に通い、予備校に行き、そこそこな成績で大学に入った、そこそこ恵まれた環境で育った大学生がたくさんいた。みんながみんな、似たような道を通って同じ場所に辿り着いている。よく言えば粒揃いということだろう。しかしこの大学でいう「普通」からはみ出してしまうと、どうなるのだろうという不安感が常にある。私は動物園から花鳥園に移されたペンギンのようなものだ。動物園にいたときは些細な違いで無かったものが、ここでは大きな違いとなる。友達が「あの人の服めっちゃ変わってない?」と話しかけてくるたび、そうだねと笑いながら冷や汗をかいている。あれが変わっていると言うのならば、高専は毎日が仮装パーティーである。大学に入ってから、お気に入りだったtシャツは衣装ケースの奥に押し込んで、滅多に着ることはなくなった。

この大学では、みんなが「普通」だ。「普通」でいたくない、という気持ちも、「普通」になれないつらさも、知らないのかもしれない。大学に行ける環境が普通じゃないこと、健康であることが普通じゃないこと、それが想像の範疇にないのかもしれない。

わたしは今、「普通」になろうと必死だ。ただでさえ友達が少ない私のような人間が、孤立するのに時間はかからない。服は目立たないものを何枚か買って、化粧も派手すぎず地味すぎずを心掛けている。友達との会話も、ボロが出ないように自分からは天気か授業か食べ物の話ぐらいしかしていない。焦ると文字が頭に入ってこなくなる性質があるので、指名されるタイプの授業ではテキストをユニバーサルフォントに打ち替えて、少しでも人前でテンパらないように、「変な人」と思われないようにしている。

正直ぜんぶめんどくさい。好きな服を着たい。でも、孤立するほうが、もっとめんどくさい。だから私は普通なふりをする。


こうして普通を目指す私だけれど、他人に「普通」を強いてはいけないこと、「普通」が普通じゃないかもしれないことを、忘れないようにしないとなぁ、と思う日々である。心の余裕が減ってくると、俯瞰も鳥瞰も忘れがちだ。

もうじき真夏になる。山育ちの私にはつらい季節になるだろう。暑さのせいで心が狭くならないように、エアコンの電気代は惜しまない。そういうことにさせてほしい。



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