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[Column] 模試の設問から英語を学ぶ意味について考える

模試の設問にふと思う

模試の設問の中に気になるものがあった。国語の作文である。

テーマは「英語(外国語)の必要性を伝える文」。
将来海外に行くつもりはないから英語の勉強は必要ないと主張する中学生に対して、英語学習の必要性・重要性を説くという趣旨である。

この問いに対する模範的な解答は、たとえば、
「オリンピックや万博でたくさんの外国人が日本にやって来るのだから、道でも聞かれたときに答えられないと恥をかく」とか、
「グローバル化の進展で外国人と一緒に働く機会が今後さらに増えるかもしれない。そうなったときに英語ができないと仕事にならない」とかいうような視点が考えられる。

テストの解答としては充分だろう。事実、生徒の作文のほとんどはそんな感じになる。でもよく考えてみよう。この話題、実はもっと根本的な問いを投げかけているのではあるまいか。

すなわち、「わたしたちはなぜ外国語として英語を学んでいるのか」。


英語だけが外国語ではない

われわれは外国語として英語を学ぶことに、何ら疑問を抱くことはない。多くの日本人にとって、「外国語 = 英語」の図式ができあがっている。でもそれって、少しおかしなことではないか。

現在、世界にはおよそ6,000~7,000もの言語が存在するとされいる。その中には文字を持たず口伝だけで継承されるもの、文法が極端に難しいもの、ネイティブの話者が高齢であったりごく少数であったりして、今後数年のうちに消滅してしまう可能性が高いものなど、さまざまでである。

その中で、ある程度の規模の使用者がいて、日本から地理的に近いところにある言語は、たとえば中国語・韓国語・ロシア語が考えられる。日本政府観光局の統計によると、日本に来る外国人の約70%は中国(および香港・台湾)・韓国からである。外国人というと、髪が金髪で、瞳が青や緑の人をつい想像してしまうが、我々が遭遇する可能性の高い外国人は、その多くがアジアからやって来ているのである。

それに、われわれは「欧米」とひとくくりにしてしまうが、ひと口にヨーロッパと言っても、EU(ヨーロッパ連合)の加盟国数だけで25を超えているし、民族の数となったらそれ以上である(そもそもEUに非加盟の国も相当数ある)。そのそれぞれで異なった歴史と文化があり、異なった言語が使われている。

だから、ヨーロッパ系の人だからといって、むやみに英語で話しかけるのは非常に失礼なことで、その人の誇りを傷つけることもありうる。言語は、民族の歴史と文化そのものだからである。

[筆者注]
国際連合では英語・フランス語・スペイン語・ロシア語・中国語の5つに、近年ではアラビア語を加えた6つの言語を同格の公用語としている。


わたしたちが英語を学ぶ意味

日本における英語教育の歴史は案外と古く、幕末の頃までさかのぼる。18世紀当時、大英帝国は各地に植民地を広げ、世界を支配しつつあった。江戸幕府に取って代わった明治新政府は、富国強兵の一環として当時の最先進国であるイギリスの言語を学校教育に盛り込んだのだ。以来、第二次大戦中に敵性語として遠ざけられた一時期を除いて、英語を第一外国語として学ぶ流れは変わらず続いている。

いまや英語は世界50か国以上、およそ20億人もの人々が日常的に使用し、国際公用語として扱われることもしばしばあるが、しかしそれは、英語だけ勉強しておけばまるっとOK、ということを意味しない。

筆者は学生時代、ロシア・モスクワに渡航したことがある。そこでは英語がほとんど通じず、はじめは愕然とした。ロシアの人々が使える英語というのは、一般的な日本人が使える英語と同じ程度なのである。考えてみれば、ソ連が崩壊してまだ30数年。かつて世界が西と東に分断されていたのはそれほど昔の話ではないのだ。「東側世界」という言葉は伊達ではなく、かの土地では今もってロシア語が公用語なのである。16世紀に“日の沈まぬ国”を現出したスペインと、その国の言葉にも同じようなことが言えるであろう。

英語が使えれば、それだけ多くの人と知り合い、意見を交換し、自分の世界を広げることができるだろう。しかし大切なのはその先、世界には、まだまだ自分の知らない国、地域、社会、文化、自然、思想や生活習慣などがあり、それらを学ぶには、実のところ日本語と英語だけでは足りないのだ。英語を学ぶのは、そういった出会いのきっかけにするためであるということを忘れてはいけないと思うのである。

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