私は女の子だった。

雨宮まみさんの新刊「40歳がくる!」を読んだ。彼女がいなくなって、7年ぶりに彼女の言葉に触れて、以前は何もかも打ち明けて相談に乗ってくれ、目標としていた先輩と話が噛み合わなくなったような感覚になり、少しさみしく思った。

彼女の文章に出会ったのは、学生気分が少しずつ抜け出した23歳の時。「こじらせ女子」を自認していた私が本屋で「女子をこじらせて」を本屋で手に取るのは必然だったように思う。初めて読んだ時に、赤裸々に語られる彼女の心情に心を鷲掴みにされた。10代の後半から自己顕示欲と性欲と恋愛欲に振り回されてた私の心情が、彼女の文章に同期し、言語化されていく感覚を受けた。自分の悩みと他人には見せられない心情を共有出来て嬉しい反面、自分が特別な感性を持っているわけではないという事に、落胆した。

それからコラムやインタビューや新刊など、少しずつ彼女の言葉を追いかけた。彼女はどこまでも「女の子」に寄り添ってくれていた。

彼女を追いかけてくうちに、自分より学歴も良く、知性があり、美しい女性も、もがいている事を知ってしまった。到底、追いつけないものに手を伸ばそうとしている事に気づいた23歳の私は足掻くのを止めてみる事にした。夢を見るのを止め、現実の自分の知能と容貌を鑑み、現実から一歩ずつ進んでみることにした。夢のような理想と、自分の現在地が離れていくほど、しんどくなる事を理解したからだ。現実は「なんだこんなものか」の連続であり、単調だが充実感があった。彼女の作品は、言語化出来なかった渇望を、言語化し分析し、程よい着地点まで導いてくれた。

私が夢見る「女の子」を卒業し、生々しく生きる「女」になってから彼女の言葉をあまり欲しなくなっていった。文章にあまり触れる事はなく、メディアや彼女のSNSに映し出される、非日常的な美しい画像や、楽しそうなパーティを眺めて目の保養にしてた。とても美しく、ふわふわした世界に生きているのだと、勝手に感じていた。
そんな矢先に訃報を聞き、とても驚いた事を思い出す。
それから7年経ち、本屋で「40歳になる!」を見かけすぐに購入した。30代に突入した私には、40歳になる怖さはわからないが、文章内のキラキラした部分と吐露される心情の生々しさ毒々しさの高低差に驚いた。本の中には40歳になる女性と夢見る女の子が共存しているように思えた。

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