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連載「東京空襲体験記 字の風景録」を歩く 第2回―墨田区東駒形・横川公園
2023年3~5月に開催した企画展「空襲体験記を書く、一冊に編む」の写真図録を作りました。
ウエブサイト「東京空襲体験記 字の風景録」
https://jifukei.wordpress.com/
![](https://assets.st-note.com/img/1693446440942-lqBy2sp8E5.jpg?width=1200)
4回の連載で掲載写真を紹介します。
第2回は「写真1.2 横川公園 2023.01.07」です。
森川寿美子の空襲体験記 風景録よりhttps://jifukei.wordpress.com/2023/06/26/%e6%a3%ae%e5%b7%9d%e5%af%bf%e7%be%8e%e5%ad%90%e3%81%ae%e7%a9%ba%e8%a5%b2%e4%bd%93%e9%a8%93%e8%a8%98/
![](https://assets.st-note.com/img/1693446572276-CiQsNJ5ND4.jpg?width=1200)
横川公園は、墨田区東駒形、横川小学校に隣接する小さな公園です。このロケーションは戦前から変わりません。3月10日の夜、この公園に住民が押し寄せたあと、一面火の海となり、多くの人が亡くなりました。
現場に立つと、道を隔てたすぐそこまで、住宅がびっしり建て込んでいるのに驚きました。そしておそらく、住民がこの公園に逃げたとき、周辺はまだ燃え出していなかったのだろうと、想像しました。
その状況を、学校の中から見ていたのが、戦後、前衛書道家として活動した井上有一です。井上は当時、横川国民学校の教員で、この夜は宿直で校内にいました。彼がその時の様子を書き留めたのが絵入りの筆書き「夢幻録 草稿 敗戦記」(井上有一『東京大空襲』岩波書店、1995年所収)です。
「運動場にいた避難民が茫然として隅にかたまっている」
「外からは入れろ入れろの怒号、中からはだめだだめだの怒号」
「運動場を見る。火の粉の海。」など。
ぎりぎりの状況を、井上は、校舎の内側から距離を置いて眺めています。
筆書きのなかに、「駒形橋方面の火の手がすでに学校の南側百米許りのところを東へ東へと狂い走っている」とあります。「駒形橋方面」とは、公園から見て「西」の方角。一方、森川寿美子さんの体験記を読むと、「三ツ目通りももうすぐ焼け落ちるぞ」と叫ぶ人の声が出てきます。「三つ目通り」も、公園から見て「西」の方角で、井上の筆書きと一致します。
やはり、公園のあたりは、最初は燃えておらず、まず公園の西側方面が爆撃され、そこから東へと向かう延焼によってなめつくされたのです。
森川さんの体験記1編だけでは分かりませんが、ほかの記録と照合することで、当時の状況が裏付けられた事例です。井上有一の「夢幻録」「噫横川国民学校」(群馬県立近代美術館所蔵)と森川さんの直筆原稿を「一対の記録」と見ることで、横川公園周辺の状況を立体的に把握できます。
この写真について、「解説」の第2節「資料としての風景」のなかで解説しました。よろしければ、ご一読ください。https://jifukei.wordpress.com/2023/08/02/%ef%bc%bb%e8%a7%a3%e8%aa%ac%ef%bc%bd%e5%ad%97-%e9%a2%a8%e6%99%af%e3%82%92%e8%aa%ad%e3%82%80%e2%80%95%e7%a9%ba%e8%a5%b2%e4%bd%93%e9%a8%93%e8%a8%98%e3%81%ae%e9%a2%a8%e6%99%af%e5%b1%95%e7%a4%ba%e3%81%ab/
このたび、ウエブ公開した図録。 「風景写真」と「体験記の引用」をセットで31点、掲載しました。 ぱらぱらっとページをめくりながら。 東京を歩きなおす感覚で、ご覧いただければ幸いです。
https://jifukei.wordpress.com/
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