ユニークな友人の思い出

先月、調子が悪くてパチンコ依存で3−40万負けたので、考えを改めて「プロ的な稼働」をしている。貯玉して、もっとも効率よいように動いており、遊びというより義務感というか、まじで仕事みたいな重圧を感じる。予定の1/3は稼いだ(貯玉)ので、今日も出かける予定だが、ふとエッセイが書きたくなったので書いてから出かけることにした。

「彼(A君)」は、20年ほど前に私がインディバンドしてた時のメンバーだ。元々はかなり腕の良いギタリストなのだが「人手不足」で別のパートをしてもらっていた。当時のギタリスト氏も、面白いセンスの持ち主だったが、A君のほうが明らかに上手かった。アマチュアであんだけ弾けるやつは居ないってくらい。

なぜ今回Aのことを書くかというと、当時のAはパチプロで生活していたからだ。たしか初期の頃は飲食店のバイトもしていたが、のちに思うところあって退職し、私の知る限り終盤はパチンコ専門家になってたと思う。

私はというと、当時からパチンコ下手で、遊びでしかやっておらず、研究もしてなかったので基本的に負けてばかりいた。同じ趣味ってことで彼のやり方を少しは聞いたものの、もうちょっと本格的に教えてもらえばよかったな、と、今になって思う。

当時のバンドは私ふくめ4名編成。音楽スタジオの張り紙から、私が、Aでないほうのギタリスト氏に連絡を取って、彼ら3名に混ぜてもらった形である。私はギターを少しだけかじっているが本業はボーカリストだ。

なんだか懐かしくて涙が出そうだが、初めてスタジオに入ったときのやりとりを思い出した。Aはかなり太っちょで、坊主頭で、ギタリスト氏が「A君だよ、怖いかもしれんがええ子やで」と紹介してくれた。

じつは私は、身内にガラの悪い人が多いので、コワモテな人とかその筋の人に対しても、それほど物怖じしない。また、人を見る感覚に自信がある。A君の優しそうな目つきや態度を見て「気が小さくていいやつだろう」とすぐに思った。実際そうだった。

どれくらい気が小さいかというと、ライブのたびにA君は緊張のあまり「オエッ、オエーッ」と吐きそうになっていた。立派な図体だが気が優しいのだ。また、スタジオ後の喫茶店でいろんな話を聞いてたが、本物の「ワル」には程遠い。

いちおう高校ではいわゆる不良学生みたいな子らとつるんでたようだが、彼の本質はとても気のいい人物であった。某有名俳優さんと同級生らしく、その人の意外な一面を聞かされてそれには驚いた。(書けない)

Aは自称ロリコンで、最初は面白半分なのかと思っていたが、のちに「その筋の人が買うロリコン雑誌」を大量保持していることを知り、「あっ…」となった。念の為かいておくが、実際的なロリコン違反はしていないはずだ。

また、ロリコンといってもいろいろ居るのだろう、成人女性に興味がないわけでもなかった。懐かしくなったのだが、我々のファンの中に、私とAの気に入った女子がいて、二人で「○○ちゃん」のことを語り合って、恋のライバルのような状態になっていたこともある。

Aの変態性をもっと具体的に書きたいが、書くに憚られるネタもあって惜しい。

これは書いていいだろう、という、他のメンバーもたびたび話題にしていたエピソードを紹介しておこう。

私達は、とあるバンドの小さな大会に参加したのだが、そこで「特別賞」みたいなものを頂いた。発表があって呼び出された際、MCのおねえさんが「特別賞はxxxx(バンド名)ですー!」って言った瞬間、Aが「勃○した」とつぶやいたのだ。一同は吹き出し、その件は後に語り草となった。

ここだけ書くと意味がわからないし、未だによくわかっていないが、受賞の興奮のあまりなのか、たしかそのときAは「MCの女性のリップノイズ(マイクでしゃべるとペチャペチャいう音を拾う)がエロかった」とか言ってた気がする。

バンドのその後については、大雑把にまとめると「もっと本腰を入れたかった私と、他の3名とで温度差があって空中分解した」ということになる。リーダーは別のパートの最年長氏がやってくれていた。が、音楽学校を出ており、作詞作曲とボーカルをしている、我の強い私が、皆と意見が別れ脱退した、という感じだ。当時は今より尖っていたので、とても愚かで惜しいことをした。

のちに私は単身渡米して、プロ養成学校まで行くことになるが、挫折して帰国し、その頃からギャンブル依存者となり今に至る。

話を戻すが、数年前、LINEか何かで、疎遠だったギタリスト氏から急に連絡があった。「獅子さんの携帯であってますか」というんで何事かと思ったら、A君の訃報であった。もともと大柄で、定期治療の必要な病気を患っていたのだが、それをこじらせて、短い期間に悪化させてしまったらしい。

ギタリスト氏は非常にマメな男なので、Aのスマホから、彼の友人知人と思われる、あらゆる人に連絡をしてくれたらしい。比べるのも妙な話だが、通夜だけで、一般企業の部長・社長クラスくらいの参列客が集まった。それほど多くの人に愛されているA君であった。場所は中部地方だが、わざわざ関東から来た人もあるときく。

じつは私が脱退した後、あと3名はそのまま別のバンドを名乗ってしばらく活動を続けていた。葬儀の頃には解散してたかと思うが、それでも直近まで活動していたように思う。また、私は脱退しプロ挫折以降、彼らとは気まずくて連絡を取っていなかった。

「こんな葬儀があるのか」と私は驚いた。それは、きわめて明るい通夜だったからだ。数年前のことなので、バンド解散から15年は経っているのだが、もっぱらバンドの横の関係者や、Aを愛する多くの人が集い、ちょっとした同窓会みたいだった。私も昔の対バンというのか、バンド仲間の方々に会えてうれしかった。

Aの宗教をしらないが、基本は仏式で、祭壇の中央にAの写真、左右に彼の愛用のギターが並べられていた。読経以外の時間はロックが流れ、皆ワイワイとお茶を飲んだりして、長髪だったりロックな感じの人らが楽しく談笑していた。

読経が終わり、終盤だったと思うが「思い出のスライド」を流し、MCの方が彼の人柄などを話してくれた。その時に私の作ったバンドの曲を流してもらえた。そちらもハードロックである。手前味噌ながら、私らしからぬ明るく前向きな歌詞で、その場にとてもマッチしていた。周りの方にも好評いただいた。

疎遠だったとはいえ、感情の激しい私は、ご焼香の時、めちゃくちゃ大声で泣き叫んだ。

こんなことを言うのは恐縮だが、「うらやましい」と思った点がある。それは、彼の御母上のメッセージだ。カードに印刷されて全員に配られたので、それを拝読したのか、音読もあったのか失念したが、内容がとてもポジティブだった。

というのは、「親ばかかもしれませんが、本当に皆に愛される、明るくて良い息子でした」というような趣旨で、とにかく明るくポジティブだったのだ。
子に先立たれる御母上の心中は図りしれないが、無理に明るく、というわけでもなく、参拝客に対しても本当に明るく感謝を持って接してくださっていた。

うらやましい、というのは、私の親であれば、あんな褒め言葉は出てこない。むろん私の父母も私を愛してはいるだろうが、人さまに表立って「うちの息子は皆に愛される良い子でした」なんて言える親ではないのをよく知っている。(それが世間的常識であるにせよ)悪い意味で謙遜して「至らぬ息子でしたが」みたいな言い方しかできない。

じっさい、Aと御母上の関係は、堂々と互いを好きだ、といえるようなそれだったと思う。ウチとは正反対だ。

A君の懐かしい思い出ばなしをメインに書くつもりだったが、思わず私の傷を掘り出してしまった。ともかくAは、本当の意味で皆に愛されている男であった。

バンドを辞めてから、何かの機会にSNSでAとチャットした頃、彼は病苦からか、自身の不遇さを私に打ち明けてくれたことがある。当時は気分がすぐれなかったのか、わりと辛辣なことを言っていたように覚えているが、それは、別の意味で病気だった私だからこそ言えた話だったようにも思う。

「不世出の天才」なんて言葉があるが、プロ専門校まで通った私から見て、彼のような人こそそれに当たるような気がする。昨今ではギターの上手いアマチュアもWebに大勢いるが、彼は技術・センス両面を持ち合わせていた。ギタリスト氏には恐縮だが、私はAにもギタリストであってほしかった。(ツインギターであれどんな形であれ)

彼は、作詞作曲の才能もあったとみえ、別のバンドに楽曲提供などもしたり、時間があればサポートメンバーなどもしていた様子である。それを「職業にするかどうか」というのはこちらの勝手な思惑で失礼だが、もっと世間に出てもいい人材だと私は思っていた。

日常における彼もユニークで明るい男だった。飲食店では店員さんとすぐ仲良くなる。私にはそういう面が欠けているため、とにかく「惜しい」というのと、すこし羨ましいな、と思う。

いくらでも思い出が出てきそうだが、長くなったのでこのあたりにさせて頂こう。私はというと、さいきんパチンコで何とか稼がなきゃならない重圧からか、けさがた不思議とAが出てくる夢を見た。夢とは奇妙なもので、亡くなった人に会っても、その中ではついぞ疑問を抱かなかった。相変わらず明るいAだった。

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