『(簡易な違約とともに書き逸れていく)鶺鴒追跡』報告 *(黄鶺鴒)
行く水の目にとどまらぬ青水沫/鶺鴒の尾は触れにたりけり(北原白秋)・・・
カツキエカツムスヒテ(鴨長明)・・・
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☘鶺鴒追跡、
「鶺鴒の尾は触れにたりけり」は、
「触れにたり」で一度尾が川面に触れ、そして離れ、
「けり」は詠嘆というよりはむしろ意味的には冗長となることで
二字分の小鳥の尾の長さを示した視覚的効果を与えているのかもしれない。
鶺鴒はせせらぎの清流の[se]と、
優美にして華やかの[kirei]を音に持つという点で、
同じ仲間の雀よりも遥かに高尚な鳥の地位をしめていることは、
雀にとってははなはだ同情すべき事態である。
雀にも別の名前が必要ではないだろうか。
[su-zu-me]、涼めよ雀、風鈴を揺らす夏風をあやしながら。
[shu-ju-me]、尊い珠玉の末娘、朱珠芽の成長を記帳するという種々名
[shu-ju-mei]、を持つ鳥として。
北原白秋はこの歌に<黄鶺鴒>と記しており、
続く歌にも
「岩づたふ黄の鶺鴒の影見れば冬の明りぞ澄みとほりたる」と
しているので、この鶺鴒は黄鶺鴒。
『渓流唱』の序にも、
「昭和十年一月、伊豆湯ヶ島温泉落合楼に遊ぶ。淹留二十日余、概ね渓流に望む湯滝の階上に起居す。」とある。
白秋は、観光するわけでもなく、
ただ窓から小鳥が渓流に寄ってくるのを眺めたり、
たぬきがそそくさと通り過ぎたりするのを傍観しているだけだが、
そのことで歌心はかじかんでいた指をほぐされて、記述が始まる。
あおみなわ、[a-o-mi-na-wa]、
あおみなあわ、[a-o-mi-na-a-wa]、
<泡>の-a-はすでに万葉の時代から消えており、
それを補うように青の[a]、
尾の[o]があたりを一面に染めて、
昭和十年一月、伊豆の湯ヶ島温泉。
自らの名前の中に色を含有している白秋の<歌>は、
色の衝突と音の反復を契機として生じる。
「草わかば色鉛筆の赤き粉の散るがいとしく寝て削るなり」の
草の緑と、色鉛筆の赤。
「春の鳥な泣きそ泣きそあかあかと外との面もの草に日の入る夕」の
再び草の緑と、夕日の赤。
ここでは、
黄鶺鴒の黄色と、
色彩を帯びるまもなく流れていく
渓流の速さの青である。
(落合楼は現在は、建物が国の登録有形文化財な登録されているとかで、
(庶民には地理的にも懐事情的にも趣深すぎる宿泊機関となっているため、
(実地見聞をしながらの追体験をするのは難しい。
(しかしながら、鶺鴒を追う身としては同じ立場。
(佇み、傍観し、ひっそりとしたなかでの動きを感知する器官として
(作動していく。
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