「僕」という男性用の一人称を使うのを一旦やめることから始めてみたい 〜『バービー』を観て考えたこと(2)〜

今回のテーマは、社会的意義が大きいものだという確信があります。
ですので、読みやすくまとめてバズりを狙った方が良いのでは、などとも思いました。
ただ、そうなると、自分の考えをまとめることと、読み手に意見を効果的に伝えることとで、焦点が定まらなくなるように思ったので、やはり自分用に書きます。
余談ですが、次の 2 つのどちらをタイトルにした方がバズりそうかで迷いました。

  • 「俺」や「僕」は放送禁止用語にした方が日本が良くなる説

  • 「俺」や「僕」は放送禁止用語にした方が日本が良くなると僕は思う

後者は小狡い感があります。

また、書き出しとしては「恥の多い生涯を送ってきました。…もっとも、その恥ずかしさに 38 年間気付かなかったのですが。」などはどうでしょうか?
こうして案を晒すこと自体が恥ずかしい感もありますね。

今回、意外にもきちんと続編を書き始めようと思った理由は、昨日『バービー』を観て、「今後はこの点を意識し、必要に応じて自分の振る舞いを変えていきたい」と考えた内容がありつつも、それが一時的な考えに留まり、振る舞いには影響を及ぼさないまま頭から抜けていってしまいそうだと感じたためです。
もう少しちゃんと考えて、口先だけではなく変わりたい、ということです。

昨日、Netflix での本作品の鑑賞の直後に、妻と感想を共有しました。
元はと言えば、妻から「これを観てどう思うか知りたい」と前日に言われて、それを行動に移したのでした。
共有した感想は、概ね昨日の note の内容の通りだったのですが、共有の途中で特に気になったのは、自分が妻に感想を共有している、その行為の様子自体が、男性性に塗れているように思ったことでした。
何だか、裸の王様が裸であることに気付いたようで、気恥ずかしさや居心地の悪さを感じ、一挙手一投足をおずおずと行っていました。
具体的には、以下のようなものです。

  • 胡座をかいた姿勢

  • 「僕」という一人称

  • 声の高さや口調

  • 発する雰囲気

思うに、自分はこれまでの 38 年間の人生で、自覚することなしに、男性という「特権」に甘んじてきたように思います。
(ちなみに、「特権」と鉤括弧で括っているのは、ここで表したいのは、「男性は女性より優れている」などということではないためです。)
より正確には、自分が男性であると意識し始めた時点からでしょうか?
いえ、正確さを突き詰めるならば、母の胎内にいる自分が男性だと親が認知した時点からかもしれません(大袈裟?)。

もし、自分が男性らしさを全く纏っていなかったならば、自分はどのような人生を送ってきたことでしょうか?
また、妻に胡座をかきながらバービーの感想を述べる様子は、どのように異なっていたことでしょうか?

恥ずかしいことの一つには、自分は自身をフェミニストだと認知してきたにも関わらず、自分が特権に甘んじているような意識に欠けてきたことです。
また、もう一つ恥ずかしいこととしては、(勝手な推測かもしれませんが)逆に女性であれば、「もし自分が男性権(面倒臭いのでこの note ではこの言葉を使います)をもっていれば」ということは普通に考えたことがありそうな点です。
「差別する側は自分が差別していることに気付かない」というようなことを聞いたことがありますが、それと似ている感じがします。
自分がその立場を至極当然のものとして享受してきたゆえです。

もう少し考えを深めたいので、書き足したり、続編を書いたりするかもしれません。
ひとまず、顎髭を剃り、「僕」の代わりに「自分」や「私」を使うことを心掛けてみます。
でも、日本語ではどちらもしっくりこないんですよね…。


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