日常の考え事 → 人格形成 〜雑念を思考で置き換えたい〜

自分の構成要素は何か?
自分を練り、作り変えるものは何か?
格好付けたような表現を並べていますが、「自分とは何者か」を作り上げてきているのは、一体何なのか、という問いです。

小生の考えでは、その主なものは、「日頃の考え」です。
つまり、日常生活の中で、頭の中に思い巡らせる内容が、その人を作り上げるのだと考えています。

自分の中ではこの考え方が腑に落ちているのですが、この考えに至ったのは、確か 35 歳前後の頃でした。
ただ、腑に落ちてはいるものの、この気付きを活かせてはいません。
今この文章を書いているのは、夜中に目が覚めてしまってのことなのですが、寝床で二度寝を望むも上手くいかない中で小生の脳内を占めていたのは、『ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』のエンディングテーマ、『はにゃ○満点、銭天堂。』でした。

自分がこれまでにどれだけ有意義な成長をしてこられたのか、甚だ疑問です。
社会情勢について悩んだことなどありません。
ロシア vs ウクライナも、イスラエル vs イスラム組織ハマス(この名前すら今知った)もどこ吹く風で、痛みに共感したり、現実の悲惨さに悩んだりはしていません。
他人事です。

社会情勢について悩むべきかについては、それについて悩むのが有意義なのかの説明が難しく感じます。
「何となくそうした方が、自分が生きる世界に責任をもつ社会の一員として相応しそう / 思慮のある大人ならば当然のこと」というような、同調圧力や強迫観念の類に基づくものかもしれません。
しかし、適当な音楽が脳内で流れている状態よりも適切な姿はありそうです。

ここで気を付けたいのは、日常の思考を、単なる知能向上の機会と捉えてはならないだろうことです。
そうではなく、神と人を愛する人格を育むような機会としたいです。

とは言っても、この願望だけでは単純すぎて、具体的な中身を伴ってこなさそうです。
そうなると、やはり社会情勢のような悩ましい課題について、何が愛のある姿なのかと考えを巡らせるのが適切なのでしょうか?

「思考が人格を育むのだから有効に使うべき」ということは認識していましたが、肝心の「それでは何を考えるべきか」という点について、随分と空っぽだったことに気付けて良かったです。
今しばらく探ってみたいです。


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