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【INFJ x HSP】ありようと尊厳

人としての驕りや愚かさを恥じるべく、醜いまでのありようを忌み嫌っても人であることから逃れられない。

だからこそ身を律し、分をわきまえ、至らぬ未熟さに若輩であると謙虚でいられるのだろうと思う。

足りぬ先、及ばぬ先、それもまた渓流に流れる岩が小石になるように打たれて丸くなる所が若気の至りなのかもしれない。

范蠡が次男の死に長男の機知至らぬを悟って寂しく笑い泣いたように、変わらぬと知りながら手を尽くすことは無為ではなく、TENETを取っても起きたことは起きたことと、何もしない理由にはなり得ないのだという思いを深める。

ただ事を為すのは人であって、2人を成すのは他者ありきと思うが故に、相手次第と言い切れる所は自己理解ありきのように思える。

信長あっての木下藤吉であって、ただ信長いなくとも木下藤吉であることに変わらずにいられるかと言う問いが常に自身の生き方に投げかけられている問いである。

恥ずべきは自己の至らなさであるというより、気付かずに向き合わずにやり過ごしてしまうことに他ならない。

結局自身のありようを突き詰めることが尊厳であって誠実さであって、伝わろうと伝わるまいと一貫した意志に揺らぎなければ信じるに足りる変わらなさ、不変的な価値と言える。

いつか神道の系譜を組む方に「どこまでも澄み切って汚れのない心の持ち主だ」と評されたことがある。

目指すべきは高みではなく、日々の選択や瞬間の連続が人柄という層の厚みを増すことに、樹木の年輪と近いものを感じる。

それが飄々と細く風雨に折れるようなものである事を恥じる訳であって、逃げるのは体であって心は常に相手を向いていると言う隠し剣鬼の爪にも響く姿勢の話だと考える。

時は何も解決してくれないが風化させ忘れさせてくれることが脳が授ける生きやすさであるなら、猛々しくも想い馳せいつまでも慕う心は柔軟性に多少欠ける生き方であれど、死して終わりを迎える美しさに等しく幕閉じた中で煌々と輝いて燃える姿なのかもしれない。

人の良さを知る人が往々にして短所も抑えているように、一面以外に多様な側面を持つ人や事柄にやはり僕は惹かれやすい。

反面教師を例にとるより、憧れからなる模倣が生き方や芸術を生み出し、それでも型に嵌らずに崩れていくところが流派や自己流となるわけであって。

不出来で不器用であることが返って自身のユニークさの引き立て役になっていると思えば、弊害多かれどあまり憎んだものではないと笑みを溢す。

満足できない理由が欲からではなく、感じ方から生じるが故に面倒であるとあまつ自分からも早々に白旗を掲げたくなるようなものであるが、ユーモアが命を救うように、後天的に勝ち得た・学び得たしぶとさが自身のありようにつながると思う。

共通項として見出す本質が厚くなる喜びや学びの深みはあっても、想像の及ばぬ驚きは自己の枠を越えた箇所にあって感銘を受ける訳で、刺激といえば尚のことまだ自分には分からないことだらけだと健やかな心地で居られるような気もする。

ここから何ができるのかと起点が動かない問題解決ほど苦戦する訳であるが、テコでも動かない山があるから修験者へと変貌を遂げる訳で。

紛れもなく愛妻家になっただろうと評される間は、自身が衰えるわけではないと自信を持つことができる。

飢えを何で満たすのか、そこがたまたま向き合い続けるだけであったことが目的でなくありようを意味する限りにおいて、達観ではなく母が子を思う気持ちと言い換えても良いかと思う。

問題ないように進んでいることよりも、ぶつかってでも手を取り合っている方が真であると思う。とはいえ辛苦を共にする相手と平和を共にする相手が異なる場合があることは歴史からも学べるように、如何なる時もと誓わずとも変わらない人であり続けたいしそういった相手に見出されたい訳である。

そう願うこともまた、1つの欲なのか。
注げる意思の強さは気質にも対象にもよるので一概に広くあまねくとは呼べないが、そう思えば思うほど直感や一目惚れのように強く心動かされる好きなものでなければ、相性ではなく対象が悪いのだと。

分かっていながらも機会を与えることは范蠡に倣っても愚かなことにはならないと思うが、寂しく笑う笑みをあといくつこぼせばと思うくらいであれば、満ち足りる日が来るまで待ち望み追いさらばえることもありようと尊厳。

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