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逆⇔神君伊賀越え_2日目(3/4)


今度は三重県と滋賀県の県境越え

音羽-小川城の距離 ⇒約12km

地図を見て音羽は伊賀の入口だったことに気づく

だとすれば、神君伊賀越えルートにおいて、伊賀十二評定衆の中では門番的な役割を果たさなければならなかったはずだ

簡単には素通りさせられなかった事情がよくわかった

西山の棚田

小川城へ向かう前に1本道を間違え"棚田''標識を発見

山道でこの標識が目に入るとつい寄り道してしまう

伊賀市北西部に位置するこの棚田は、現地の看板に令和4年3月(2022年)、 日本の棚田百選に認定された表記があった

ちなみに棚田が荒廃する場合もあることから百選は再選定もあるとか

街道をゆく-甲賀と伊賀のみち

さらに小川城への道へ戻る途中、司馬遼太郎文学碑を発見 直木賞作品「梟の城」の舞台にもなった場所でもあるとか

以前読んだが内容はすっかり忘れてた改めて読み直したい

作品の舞台となった現地へ行ってからの再読は読書の醍醐味

もしくは旅行の醍醐味かもしれない

小川城

家康一行が堺を出発してから2日目の晩、ここで一夜を過ごした

和田惟政の弟、甲賀の和田定教と合流し、早朝に出発したそう

麓から本城のある山頂まで徒歩およそ30分 現在、草は生い茂っているものの、当時は見渡しの良かったことが見てわかった

神君伊賀越えの後日談だが、小川城は、 1585年頃に城主の多羅尾光俊によって大規模改修

だが、光俊の娘が豊臣秀次に嫁いでおり、秀次の切腹に連座して改易

それから廃城となった

妙福寺

家康が宿泊したと云われるもう1つの場所

現在は清光寺となっており、境内にはこの地元、信楽焼きで有名なたぬきの置物があった

妙福寺は、小川城の複合型城郭で一画としてあったようで境内の裏手に城跡があった

山頂にある本城よりおそらくこちらで宿泊した可能性が高いだろう

ちなみに廃城した小川城だが、家康にとって恩義のある多羅尾氏は江戸時代には旗本となり多羅尾代官陣屋として復活

幕末まで世襲代官として存続したそうだ

伊賀から甲賀、そしてまた今度は山城へいく

『裏白峠 』へ

車では13分

だが家康一行はこの10kmの山道を夕方から夜半にかけて越えたようだ

これはしんどいし危険

交通ガイド的な役割として地元領民がガイドしたそうだが、他にも斥候の役割として先を歩いた家臣もいただろう

裏白峠は山城と近江の国境だったが現在も京都と滋賀の県境

白子浜からここまで約90kmの距離を5時間のペースで通過🚙

家康一行と比べて1/3の時間で来ているが、体力的には1/10以下

まだまだ行ける

遍照院

裏白峠-遍照院の距離 ⇒約2km

国境の裏白峠を通過して2日目の宿泊地まで小川城までの距離が約12km

1里=4kmだから3里の距離になる

1区間を3里から2里のペースを保ち、やはり慎重に計算して進んでいたことがわかる

遍照院に到着したのは14時頃

現地の案内板によるとここで新しい案内人も加わり、物見と連絡をとりながら進んだと記してあった

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