逆⇔神君伊賀越え_2日目(2/4)
次なる目的地まで車で約10分
家康がいた当時の状況を考えると、この伊賀越えルートが異なっていようが、馬を使っていようが、とにかくこんな山々を家康一行たち全員越えて岡崎まで3日で到達したこと自体が改めてスゴい
加太-徳永寺の距離 ⇒約10km
徳永寺
伊賀市と亀山市の中間に位置する柘植にあるお寺
江戸時代に入って、藤堂高虎が伊賀藩の藩主になって以降も神君伊賀越えの恩から寄進していたそう
境内には案内板にこの徳永寺で伊賀越えの際、立ち寄ったことが記載されていた
福地城
途中、道路標識を傍の案内板を発見して立ち寄る
福地城は伊賀有数の豪族・福地氏によって築かれた城
1581年の「第2次天正伊賀の乱」の際、福地宗隆は信長に味方し、侵攻軍の道案内
それにより伊賀平定後に所領を安堵されたが、裏切り者としていたたまれず、他国へ逃亡したとか
萬壽寺
福地は、松尾芭蕉の出身地であり、また 萬壽寺は、松尾家の菩提寺でもあるそう
関の瑞光寺同様、家紋の入った瓦屋根が境内で発見
徳永寺の次は「音羽」
徳永寺-音羽の距離 ⇒約13km
音羽は伊賀の中心部から北部にあたり、 ここでも襲撃されたようだ
仮に前述の雑兵200人を家康一行35人+案内人5人程度で戦ったとすると、1人あたり5人を相手にしなければならなかった換算になる
本田忠勝なら20人は相手していたかも!?
音羽氏城
川俣城と同じく偶然発見
後で調べてみたら 伊賀十二評定衆のひとり、音羽半六が城主だった説あり
1581年の「第二次天正伊賀の乱」後に廃城となったらしい
となると家康一行が通過したときは城主不在だったことも考えられる
音羽地区にある西音寺と佐々神社
狙撃しやすいこの立地
甲冑を付けていない35人の家康一行を狙う立場で考えると
鉄砲や弓矢、罠を仕掛ければ無傷では通らせなかったと思う
おそらく最終的には武力ではなく、
音羽氏などこの地の主がなんらかの交渉の末、通行許可を出したのだろう
御斎峠(おととぎとうげ)周辺
峠から伊賀上野の市街地を望める
この景色を観て、 音羽衆が家康一行を襲ったのは、
通行可否や処置をどうするか伊賀十二評定衆の本部へ相談に行くための時間稼ぎだったのではふと思った
伊賀上野にあった本部・平楽寺へ思案顔で訊ねに行った音羽領主の姿が目に浮かんだ
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