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逆⇔神君伊賀越え_2日目(1/4)


いよいよこれから本番の伊賀越え

家康が船で尾張、三河と渡ったと云われる鈴鹿市の白子港からスタート

途中、コンビニで買った鈴鹿ご当地のわらび餅で腹ごしらえ

この日は晴れて海は穏やか

家康が渡った時は6月の梅雨の時期だったが天候と海は荒れてなかったか気になった

鈴鹿サーキット

次の目的地に向かう途中に通過

F1日本グランプリをはじめモータースポーツの聖地

寄り道はせず車中越しからの景色

写真には収められなかったけど、

壮大な外観と佇まいに自ずとテンション上がった

6/4(西暦6/23)現在の亀山市、木崎町の瑞光寺に到着

家康一行はちょっと休憩したされる

境内には家康が上洛時に立ち寄り食べた"権現柿"があり、どうやら伊賀越え以外にも立ち寄っていた様子

関には宿場町だった雰囲気が今も残っていた

瑞光寺には、亀山城主、関家の菩提寺もある

平家の血筋である関氏の家紋(揚羽蝶)が入った瓦屋根がなぜか境内に

ちなみに 白子浜-関の距離⇒約20km

白子浜に到着したのが21時頃だったそうだから関に着いたときは徒歩なら16時頃になる

ただし、白子からここまではまだ急な坂道はなかったので、おそらく馬で移動した可能性もあると思う

加太峠

「山賊のすみか」と云われた難所を通過

関宿-加太の距離 ⇒約6km

車なら約10分程度だが、整備された国道25号でも急な坂があり、

おそらくここは徒歩で1時間以上かけて通過したと思われる

山賊を警戒するなら日没前、15時から17時あたりには通過していただろう

川俣城
国道25号線沿いにて偶然発見
築城者は鹿伏兎氏で南北朝時代に築かれ、
1414年北畠満雅がそれまで御霊ヶ丘陣屋と呼ばれていたのを川俣城と改めたらしい

このあたりで家康一行は一揆に襲われたが山口定教率いる甲賀郷士が追い払った説あり

この時、川俣城主は敵だったか味方だったか、いかに

ちなみに家康一行35名の名前を調べて当時の年齢を計算してみた

最年長⇒酒井忠次55歳 最年少⇒鳥居お松(男)16歳

雑兵200人討ち取ったり、時には山賊などに金品を与えたりして通過したらしいが、大河ドラマ「どうする家康」版の伊賀越えのように途中で分かれた説があってもおかしくない


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