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2023.11.27 考えることをやめることを考えることをやめることを考えることを、考える

先日、姪に会ってきた。

産まれたてホヤホヤホヤホヤホヤホヤホヤホヤくらいなので、菌とかうつったらどうしようとか、首が据わってないどころの話ではないので普通に首ボキってやって殺してしまったらどうしようとか、色々不安でかなり会いたくなかった。

けど会えと言われたので会った。



実際見た赤ちゃんは、「モノ」感がすごかった。

ずっとすやすや寝ていて静かだったのもあるが、生きてる感じがしなかった。たまに動くけど、生きてないもの(ロボットだったり揺れる草木だったり)だってたまに動くので、やはり生きている感じはしなかった。命を感じなかった。

すやすや寝ているので皆好き勝手触ったり寝顔を見たりして、そして皆で抱っこを始めた。



抱っこだけは嫌だ!!!!

殺しそうだから!!!!!!!

持ち方知らんし!!!!!!!!

と恐怖だったので、断固拒否したが、私の意志などこの世界において全く加味されないので、抱っこをすることになった。

授乳クッションを貸してもらい、軽い手ほどきを受けて抱っこをさせられた。クッションもあるので分からないがやはり21gもあるように感じなかった。

人の目を見れないのが赤ちゃんにも発動してて手足や頭頂部とかを見ていたが毛がボーボーですごかった。ボボボーボ・ボーボボ。

あと、赤ちゃんの匂いか人の家の匂いか分からないけど今まで嗅いだことのない強烈な良さげな匂いがして、私の鼻息が臭すぎたら可哀想すぎると思って息を止めてしまった。ホヤホヤ赤ちゃんを抱く緊張と殺人の恐怖と息止めで体がガッチガチになった。

自己肯定感の減少も発動して、私より既に美人だし手足も長いし指も長いしすごい……それに比べて一体何なんだ私は……いや私の手の親指短すぎるだろ……😭という気持ちになった。赤ちゃんがこの世の主役であるのに自分のことばかり考えていて自己中心的で、それも嫌になった。



会っている間ずーっと寝ていたからなのもあるだろうけど、最初から最後まで「モノ」だという感想を拭えなかった。

成人の人間も寝ている間は死んでいるように思えるし、特に私は死んでるんじゃないの?という不安が大きくてよくジョジョ3部のDIOが如く寝ている人の胸が上下しているか注意深く確認するんだけど、大体上下しているのでほっとする。けど、寝ている状態って相互にとって死んでいる状態と変わらないので、やはり死体に見えてくる。

寝ている状態を死と同一視する理由は、昔祖母が亡くなった時に、通夜から葬儀から火葬まで遺体を家で見ておかなければならなくて、仏様は一人にしたらだめという理由で数時間交代で遺体を見つめ続ける作業をしていたせいだと思う。結構人って死んでるのか寝てるのか分からんなとその時強く思ったので、こういう思想が育ってしまったのだと思う。

かといって、生きてる者は生きてるので、死体みたいだなあと思うのは失礼である。したがって命ある者を命あるとして見なければならないんだけど、じゃあ命ってどう確認するんだろう?

命が在るとは?

他人に命が在り、または生物に命が在り、自分に命が在ると言える理由は?



と、いうところまで考えて、本能的にまずいと思って考えるのをストップする。

そういうことを考え始めたら、良くない。

生きるという目的のためには、生きているとか生きる理由とかを考えるのは、良くない。

生きるということを目的とするのは、あまり私は興味ないんだけど、、、、、、とか考え始めるのも良くない。

考えるのをやめる。それが一番である。理由?知らん知らん。というのが正解。

正解?なんの問題に対しての正解?知らん知らん知らん知らん知らん知らん。

あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!

と絶叫するのが正解です。(本当にそうか?)







こういう時は、別のことを考えている人の考えていることを考えるのが、私にとっては良い。

この記事を読んだ。

私は以前、悪口を言うことに対して全く理解が出来ないので、「どうやら人は悪口を仲間内で共有することで連帯感を高めているっぽい」との結論を出したが、品田遊氏は別の結論を持っていた。人々が悪口を面白く思う理由について、以下のように言っていた。

コミュニケーションというものは、どんな内容を含んだものであっても、ある側面では儀礼的なものに過ぎないですよね。茶番感みたいなものを、お互いに暗黙のうちに了解し合っているというか。悪口はそこにちょっとした穴をあけるような痛快さがあるからなのかな、と。

そこまで皆無意識的に崇高な思念を持っているのかというのは疑問だが、仮にこうだと仮定して逆順で考えると、色々と納得のいくことが多い。

私が悪口を言うことにあまり楽しさを見い出せないのは、「コミュニケーションの儀礼感・茶番感は絶対的に逃れられないものである。なぜなら、私が無意識的に儀礼・茶番を自身に強いているから」と考えられる。

私は自分の思っていることを言うのが病的にできない。したがって、本当の自分の気持ちを絶対に言わずに、ふんわり思っていることや思っていないことを言うため儀礼・茶番の会話になってしまう。

病的にできないせいで人生がかなり上手くいっていないのだが、人生がかなり上手くいかないのはやばいので、何とか言えるように努力をしている。

この前編み出したのは、パペット人形を使って自分の気持ちを代弁してもらう方法だ。あまりにフィクションすぎて厨二病か?という感じだが、大真面目である。しかも結構効果があって、いつもより格段に自分の気持ちを言うことが出来たので重宝している。





パンダとトラのパペット人形(かわいい)を持っているので、気分で使い分けている。






パンダと、トラと、「うしろき」のパペット人形。

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