見出し画像

「普通の家庭」を遠く感じるとき

▶︎ 親の話を気軽にできるひとたち

クリスマスから年末年始にかけては「大切なひと」「実家」「帰省」「家族」の話が増えるし、街の空気感も変わるので情緒が変になる。
直球に書くと、みじめになる。

自分がカワイソウに思える時期に正気を保っているのがつらい。

孤独は好きだが、孤独な自分と比較してしまうものが周囲にあふれるのはつらい……という気持ちは矛盾しないと思う。

ひとと話す中で「ああこの人には親がいるんだな」と感じる瞬間も、
「年末年始はどうするの? 帰省しないの?」の返事を濁すことしかできない瞬間も、
「なんで帰らないの?」と聞かれて「親と仲悪いんですよw」と笑い話に変えて話すことに慣れたと感じる瞬間も、
結婚を前提とした恋人を作りたいと思わない理由も、
心がむずむずする。

三十路も見えてきて夜にウォーン(泣)することはなくなったが、でもやっぱり年末になるとそわつく。

ひとの話を聞いていると皆なんだかんだ過去に何かあるみたいなので、《家庭》ひいては《普通の家庭》など無いのかもしれないという気にもなってくるが、そんなことはないはず。



《家庭》というトロフィーをほとんどの人は子供時代にアンロックしたのに、わたしはできなかったんだなぁ」


そう感じると、じんわりとさみしい気持ちになる。



(こういう内容のものを発信するたびに自分でも「不幸自慢じゃん」と思うわけだけれど悲劇の主人公になりたいわけではない。
「"王様の耳はロバの耳"に出てくる穴よ〜〜聞いてくれ〜〜」みたいなきもち)





ほんとうに何気ないときに思う。

たとえば年末年始。

たとえば夜道で見る窓の明かり。

たとえば家族の車に乗り込むひとの姿。


そういう話を書こうと思った。


▶︎ 「迎えにきてくれるひと」がいるひとたち

誰かと夜まで遊んだり飲んだりしているとき、「帰りは家族が迎えに来てくれる」という人がいる。
わたしはそういうひとを見るたびにびっくりしてしまう。

そんなシステム知らない。
そんなめんどくさいことしてくれるひといるの?

はじめのころは「今回だけ特別なのかな」とか思っていたが、ひとと関わるようになるほどよくあることなのだとわかって震えた。
そんなめんどくさいことしてくれるひといるの?

未だによくわからないんだけど、迎えに行くひとは何をメリットとしているの? 何時に呼ばれるかもわからないまま行動を制限されて連絡を待ってるの?
迎えに来てもらう人も、相手がそのために待機してるとわかってて帰る時間も定めずに平気なの?
お互いさまシステムなのかな?

最寄り駅まで電車を使ってそこからタクシー使うにしても限界な立地に住んでるひととか、色々あるとは思うけど、なんかもうひたすらにすごいなぁって思う。

迎えに行くひと、連絡待つあいだに眠くなっても寝られないし、晩酌もできないし、何かしていたら中断して、靴はいて家から出て、場合によっては遠い道のりを運転して、そのひとを拾って、ただ引き返す、そのためだけに時間を割くわけじゃん……。
わたしなら、マジのお互いさまシステムじゃなきゃ嫌だ(心が狭い)


「うらやましい!」とかの怒りはない。
そもそもわたしが迎えを必要とする性格じゃなかった。

ただただ、「そんなシステム知らんが……」という驚き。

未だに「親が迎えに来る」「旦那が迎えに来る」とかにビビってしまう。
ついでにわたしも送ってくれたりするともっとビビる。

《家庭》のトロフィーが頭上で輝いているひとたちの特権なんだなぁ、って思う。


と、ここまで書いたが、記憶を掘り返せばこの件に関してはわたしもまったく経験がないわけではない。

それは小学校低学年のころと、中学生前半のころと、大学1年生のころの記憶だ(結構あるな……)

ランドセルを背負って校舎を出たとき、ポロシャツを着た父が待っていた。
自転車の後ろに乗せて、家まで一緒に帰ってくれた。
父はふだん自転車を使わないから、家からわざわざ迎えにきてくれたのだと思う。

その1回きりだったけれど、横を見たときの、塀の溝に生えている苔の緑色とそのふかふかさ、わたしが嬉しかったということは覚えている。
陽が明るかった。記憶補正のおかげで新海誠の作画みたいな爽やかさだ。
それ以外はぜんぶ忘れた。

中学生のときは、下校して最寄り駅を出ると、ときどき決まった場所に父の車が黙って停まっていた。
同じ駅で降りる同級生の手前、黒のクラウンが恥ずかしくてわたしは嫌がった。

大学1年生のとき、年末年始の間だけ巫女のバイトをした。最終日は1月3日で、父があらかじめ迎えに行くと言ってくれた。
昨年の初詣で父がおいしそうに食べていたたこ焼き屋の屋台があったから、お願いして店じまいに合わせて買わせてもらって車に乗ったら、「においがつく」って困った声で言われた。家で一緒に食べたような気がする。

わたしが中学生になった後くらいに退勤時間を調整するようになったみたいだけど、それまで父は朝早くから夜遅くまで仕事で、休日に遊んでもらったのかどうか記憶にない。だから、父娘交流はそういう「帰り道の時間」にあったのかも。中学生の一時期は父と夕食を食べていた記憶もあるけど、ぜんぜん覚えてない。

ともかく、0.5トロフィーくらいはあったのかもしれない。

それでも「家族が迎えに来る」「迎えに行く」にはビビる。

あのころ迎えに来てくれた父の気持ちもわからない。
ヒステリックな母や血の繋がりがない私を愛していたのか、それとも怯えていたのか。
愛していてくれたと思っているし、わたしも父のことが好きだ。彼が穏やかでいてくれたからわたしは大人になれたと思う。
いやでもやはりそれはそれとして、もしもいま父に「迎えに来てくれ」って言われたら「タクシー呼んで」って言う。

▶︎ リビングで団欒(だんらん)できるひとたち

学生のころ、インドカレー屋でバイトしていた。
「大体のカレー屋はネパール人だが、うちはインド人だ」と自慢げに説明する日本人オーナーとは(わたしからしたら相性が悪くて)うまくコミュニケーションがとれず、バイトとして期待に応えられないことをいつも申し訳なく思っていた。
インド人だという2人の料理人は日本語がカタコトすぎて、身振り手振りをしながらも会話が成立しない日々だったが、仕事の指示は「声で呼ぶ」「一度目は簡単に手本を見せて目的を明示してからバトンタッチ」「以降は指差し依頼」だったことが相性良く、互いに妙な信頼感があった。

まかないのカレーを食べてバイトから上がるのは22時だか23時ごろだったから、終バスも過ぎているため歩いて帰るのが常だった。

バイト先から家までは徒歩50分ないくらいの距離。たまに車が走り抜けるような静かな街中を抜けて、さらにしんと静まり返った住宅街を進んでいく。

ほとんど街灯が無いから、夜道はそれなりに暗い。月明かりは偉大だ。
見上げると星空がきれいだし、歩くうち身体はぽかぽかして、好きな曲をイヤホンで聴きながら帰るのはわりと好きだった。

(ちなみに普通に変質者と遭遇するので、真似しないでほしい)

そんな景色に当たり前にある、誰かの家の窓明かりを綺麗だなぁと眺めた。

家のシルエットの内側を、四角く切り抜く白や橙色。カーテンの質感の向こうで、誰かが生活している。
家族で夕食中かもしれないし、テレビを見ているのかもしれない。

外から眺める光は暖かくて好きだったけれど、同時にときどきすごくさみしくなった。
あの中に自分はいないし、いたことがなかったわけだし。
裸足で庭に突き出されて見た明かりとは気持ち的に違う。
母が別のテーブルからにこにこと監視してくるわたしひとりの食卓もああいう明かりの下にあったとは思えない。
(なぜ同じテーブルについてくれないのかは今でも謎だが、母が一緒にご飯を食べないのはアル中だったからだ)

そもそも、わたしが見ている窓ガラスの向こうがほんとうに暖かい家庭かどうかなんてわからないから、勝手に憧憬を抱くのもどうかと思うけれど。

あのバイト帰りの夜道は、肌寒くて暑くて、心地よいような切ないような時間だった。

▶︎ 自分だけの都合では生きていけないのが当たり前なひとたち

お金や時間の使い方だとか身の振り方だとか、そういった部分ではわたしはどこまでも自由だ。
家族の都合に振り回されているひとを見て「フフン♪」と思うこともあれば、持たざる己の身軽さを虚しく思うこともある。


そのトロフィーが良いものなのか、持っているひとにとって良いものなのか、わたしにはわかりようもない。
だから結局は隣の芝生が青い話に過ぎないが、この気持ちとは死ぬまで一生付き合うんだろうなと思う。